言いたいことも言えないこんな世の中じゃ・・・POISON

「ポイ(する)、息子(SON)」ってなんだ?(笑)

ゴミ箱や指定された場所に捨てられない我が子をさすのか

ダメな息子をポイ捨てするのか



こういうネタの展開の仕方は年をとると好きになってきます

若い頃、自分でもダジャレやオヤジギャグの類いやってはいけない

そうこころに誓ったものですが、年月を経てくると

あれは「言葉遊び」を肯定的に楽しんでいたんだなと気づきます



年をとると余計にひどくなることとして

自分が感じたことを口から漏らす感じでこぼれることがあります

身近にいる親をみるとこうなるおそれがあるのだなと実感・・・



「しょっぱいなぁ」「かたいなぁ」「なんかニオイする」

食事時に、この類いはよく口から漏れてくるのを聞くが

おそらく言っている側はそんなに意図的にしゃべっていない

単なる漏れであることが多い



しかし言われる側にとっては、そうは受け取らない場合もある

この単なる漏れであることを、両者が知っておくことが肝心である

自分で料理をするとわかるが、いつもいつも気をつけながら

お店で出すような料理をつくるわけではないし

お店で払うべき「料理の腕」までは家事には含まれない

時間や他の作業とともに並行してやっていて、手元や計算がくるう

つい時間がかかりすぎて煮詰まる、焦げる・・・



自分の言いたいことを言うことが、他人に不快な思いをさせる

こういう現実への向き合い方が現代社会においては変わってきた

不都合に感じる漏れ、不快に感じる言葉の漏れを許さなくなった

これには大事な視点が欠けたまま時代が進んでいっているからだろう



不快な思いを受け止める、受けて自分で逃がすことをやめてしまった

これに尽きるのではないだろうか

不快に思うことも実は一瞬であり、極論を言えば「慣れがすべて」

しつけの段階から不快を取り除いた世界ばかりを経験してきた

あるいは、不快な環境に親がさせなかったツケが表面化している



近頃盛んに叫ばれ、法改正などによって今年施行されるが

パワハラを定義化されたとしても、その行く末には手詰まり感がある

それはいつも弱いほうを救おう、救おうとするあまりに

弱いほうの「現状の非」を誰も責めないし、弱い本人も保護されることに

どっぷりと甘えている人間だと一切、自分で非を認めない

これで対応がリスク回避にばかり流れて、手詰まりになる



わたしたちはその不都合に感じる、不快に感じる漏れを

うまく説明して相手を納得させることは困難を極めることを知っている

やはり社会をみんなでつくるために

うまく滑らかにしていくためには、ひとりひとりが

ある程度の摩擦を逃がすスベを身につけなければならないはずだ



避難訓練ばかりが重要ではない

「非難訓練」「被難訓練」も学生時分からしておかなければならない

オヤジギャグの薫陶の流れをくむこのパターン・・・

こういう手法が好きなもんで・・・(笑)