最近は知識への到達手段が変わってきた
かつては知識という名の、答えのあるゴールに対して
人によってはまわり道を強いられながらも
自分でぶつかり、踏みとどまり、立ち上がって向かっていく
負荷があった、自然にかかっていた時代で
その負荷の連続によって成長する
それも実感できているはずである、上の世代は特に
いまはスマホで検索すると負荷を経験することなく答えにたどり着く
わかった気になっているが、答えだけ知ってうみの苦しみを味わっていない
「そんなこといっても生まれた時代がこうだからしかたない」
これで自分を納得させる材料にしているにすぎない
上っ面の知識で固めた人の言葉には、なにかコクが感じられない
イキイキと言葉を連ねていても、ペラッペラなのが上の世代には
バレッバレになるが、若い世代には違う印象になるんだから面白い
言葉の向こう側に経験や失敗、反省などのプロセスがある人は
たとえ同じ内容を話せ、という状況でも抑揚のつけ方に感情がにじみ出て
テンポも緩やかに自分を確かめるような、かみしめるような感覚で話す
自分の奥底の記憶の欠片に、改めて思いをはせて言葉をつむぎだす
ウワッツラーなまだ若い知識かぶれの人は、まだ思いは乗らない
そんなに知識詰め込みも重くはないと感じているはずである
暗記のような「字面をなぞる」程度の感覚でしか自分の思いが乗らないためだ
なんでも調べて知った気になって、かき集めた知識の豊富さが拠りどころ
知らない答えに対しての挑戦する意欲、怖いもの知らずの大胆さ
不確かな、結果がわからないことに挑戦して
打開していく自分自身の原動力が培われていく
それは答えを知らない、知ることができないから踏み出すしかないから
それが自分をつくった・・・プロセスを語る自分に自然と思いが乗る
言葉に重みがある人はその分だけ、プロセスが乗っている
答えを知ってしまうことの怖さ、それが当たり前の時代の愚かさ
成長する機会を奪っている、機械まみれの社会に対して
グロウできない、成長できない社会を愚弄せずにいられるだろうか
若い人はかわいそうだ、逆に今の時代ではタイミングが悪い
年寄りは不便を経験したのちの、便利であるから
人間として大事な成長のプロセスを体験して、それでいまの便利
ある種、理想的でつくづくいい時代を生きていると思う(笑)
若い人は負荷のかかるプロセスが実質、体験できないのだ
いきなり正解を知る、しかし正解から逆算してみることなく次へ次へ進む
失敗したくないから事前に調べてリスクを極力回避する
その姿勢がすべての行動に及んでいることに気づけないまま大人になる
「オッケーグーグル・・・不便なこと体験させて?」