ハラスメントや暴力行為と感じるかどうかは

受ける側の本人が過ごしてきた時代にもよるのではないか

受ける側の非にもバイアスがかかっているようにも

感じてしまうのだが、どうだろうか



時代の違いは、する側の育った教育環境を挙げる人が多い

当たり前の時代だとかしつけの一環だとか・・・

これは当時、そういう常識のもとでやっていたのだから

それをいまの時代もやるのはダメだ、わかる・・・まぁ、わかる



受ける側の非については、いろんなニュースになる事件のように

被害者を守りたいカタヨリが社会全体にかかってしまうのか

被害を受けたのに弱点を突くのはかわいそうだ、となってしまう

言われたくないかもしれないが、本人にとっても社会全体にとっても

これは事実であることが多い



なぜそうするのだろう?考えました

「傷つきたくない」を傷つけたくない気持ちはわからなくもない

しかしその根本的な原因は小さい頃からの

傷つけられ体験の圧倒的な少なさである



自らが身体的な痛みを伴う過ちをして、人間は、やっちゃいけないなと学ぶ

あるいは、過ちをしたことを叱られて、叩かれて泣いて、反省して学ぶ

これが昭和時代まで脈々と古来より日本で築き上げた伝統である・・・

あれもあぶないからダメ、これも汚いからダメ、それも迷惑かかるからダメ

こうして育ってしまった人間が耐性を身につけないまま社会に出始めた



社会はこの無菌人間たちをどう取り扱っていいのかわからず混乱した

いままでの常識が通じないからだ、共通理解が通じない

本人たちは素知らぬ顔で、教え方が悪い、クチで言えばわかる・・・

どうしたらいいんだ?こんなことに時間かけてる余裕はないし・・・

こんな人間のまま社会に出した親のしつけの問題だろ?



現場は混乱する、上司はなんとかしろの一点張り

板挟みに悩むが、しかたなく「下に合わせる」判断をする

それが一番簡単で、もめごとが少ない・・・ここでラクをした



これを認めたことがキッカケなのかもしれない

社会をいびつに仕立て上げてしまったのだろうと考える

混乱する現場に、解決策を見いだせずに逃げた上司は

なんのことはない、その新人たちの親世代である

この親世代にして、この子世代ありか・・・

そりゃやる気もなくなる



言ってくれる人がどれだけ有難いか

怒ってくれる人がどれだけ貴重か

あと10年もすればもっと浸透するはずだ

でも気づいたころには現場には

怒ってくれる愛情のある人は誰ひとり残っていなかった

そういう現実が待っているかもしれない