「人は、望むポジションを得るために有効な手段をとろうとする」
ということについて考えてみる
望むポジションとは、それぞれの視点によって異なる
社会的に羨ましがられるステータスへの到達・・・
ありふれた一番パターン化しやすいもので面白くない
目指そうと「仕向けられる」場所だ
そこは自分はすでに脱落したし、脱落した者が戻る場所ではない
脱落した者ほど、戻りたいと追いつきたいと願うのだが
そういう人が多いことが残念でならない
戻ったところでどうなる?そのゴールを想像してみてほしい
そこは行きたかった場所か?生きたかった人生の歩みか?と
いっしょのレールを歩んでいることの安心感に身を委ねる・・・
おそらく、この過程をかみしめているにすぎないことに気づいていない
そもそも世間並に60や70、いまや80、90歳まで
生きられるなんて保証はどこにもない
そこまで生きるだろうと考えていることが
一緒じゃないと不安という心理を生むのではないのか?
脱落したなら、脱落したなりに違う画を描くことも面白い
自分がやりたいと願うことを、叶えるために必要な場所を見据える
こちらは目標設定としては高すぎることもあるが
やりがいもあるし、それぞれの「つくり方」ができるものだ
こちらは自分はいつ死ぬかわからないと思いながら生きている
もちろん病気だとかそういう問題ではない
そこまで生きたらどうする?
そんなこと考えてたらなんにも前に進めない
おそらくは自分が同じように80や90まで生きることを
設定させられてしまっているからではないのか
人生100年なんて誰が決めたのか
広告や各種媒体の宣伝文句にすぎない
いまを生きるのに他人と同じ必要はあるか?
1つの椅子を100人で羨ましがって
100人が座ろうとしてもみんな座れるわけじゃない
1つの椅子取りゲームに100人で参加してるだけにすぎない
その数あわせのエキストラはあなたや私の必要がありますか?