違う違う、そうじゃ、そうじゃない

かつて顔のイカツイ、ひげのサングラスの方が歌っておりましたが・・・

他人に対して意見を言いづらい世の中は

どこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか?



思うに、受け手の度量とマイナス感情への慣れが育まれていないから

これもひとつの原因ではないかと推測します

ひと昔前は親は大切に育てる余裕がない時代で

叱られてバチコンとやられて、泣いて反省してガマンして・・・

みんなそうやって社会の扉をノックする前に

怒られる心づもりが形成されていたのではないだろうか



社会に出ると同じタイプの手合いのオトナに遭遇するのは

ごく自然なことだったはずです

つまり幼少のころからの、現代では厳しめにうつるしつけが

一般社会とリンクできていたからこそ、準備できていたからこそ

すんなりと馴染むことができたのではないでしょうか



厳しさや痛みの裏にたしかな愛情があり

それがのちに人生の糧になることは

自分自身が体験してきた社会のオトナたちの知恵でもあったはずです



もちろん酷い人もいます

でも酷い人ばかりでもなく、悪いことしたら例外なく

シバかれる、自分が悪いことや間違ったことをしたから

という気づきを与えてくれ、成長してきた部分があったはずです



おそらくワタクシのような40代くらいの世代からでしょうか

厳しくしてもらったことで、結果的に成長できたことを実感しながらも

自分がやられたことを我が子や部下にしないことを選択し始めました

かわいそうだから、そして酷いことをしたくないから・・・



言い分は正しいかもしれません

しかしその厳しさに変わる言葉や行動での叱咤激励ができていたか?

と問われると、解決できないままうやむやにしてしまった・・・

この決断をしたことと、打開策が見いだせなかったことが

いまの風潮に拍車をかけたのではないかと推測します



叩かれると痛いです、怖いですよもちろん

でもそれが自身を正して律してきたことも事実でしょう?

本当は無理してでも、社会での標準的な厳しさの水準まで

ワタクシたちの世代も我が子や部下を上の世代がしたのと同じように

引き上げてやらなければならなかったのかもしれません



権利の主張も間違いではありません

しかし、主張が立つばかりで解決案が見いだせない課題でもあります

あちらを立てれば、こちらが立たずで

結果的に誰も解決できませんでした



自分自身の妥協と社会の風潮が少しずつ、自分達の居心地を悪くしてしまった

おそらくほんの些細な「まぁいいか・・・」だったのかもしれません

しかしその選択の甘さが無視できないほど

社会を混乱させてしまったのではないでしょうか