誰もが同じ条件下で生きているわけではない

わたしたちも改めて理解すべきではないか?

正論は誰の目にも明らかに平等なことに関してのみ

語られるべきことではないのか?



例えば、Aさんがいるとする

Aさんの正論はシンプルに考えれば正しい、ごもっとも

Aさんが清廉潔白でお金持ちの家で、英才教育を受けて育ったエリートだとすると

その正論がさらに際立ち、一点の曇りもないものにみえる

社会的な地位があり、信用がある人が言う正論には

何も考えずに同意してしまいそうになるのが一般的な感覚だろうと思う



しかしAさんの正論は、すべてを叶えられるホントのごく一部の人

そういう立場にいるからこそ言える正論という側面もある

わたしたちの社会のなかでは様々な人の思惑が行き交う

もちろん正論もわかる、わかるけれども・・・

人々の思いは多種多様であり、大多数の人々は

毎日いいこともわるいことも、いろいろ理不尽なこともある

けど、ガマンして乗り越えてやっていくしかないよなと

子どものころからそして大人になっても、ある種の通過儀礼のごとく

みんなが当たり前に経験していたはずである



昭和の時代に若いころを過ごした人たちも含め、平成の半ばくらいまでは

先人たちを踏襲するように、その通過儀礼という共有意識が

社会全体にはなんとなく、暗黙のルールのような形で成立して

誰もが譲りガマンして社会全体を奇妙に、かつ、絶妙に整えていたように思う



しかし「声なき声」を叶えようとする正論を取り立てるあまり

さして考えずに気軽に発した一言から

欲望や嫉妬など人間の煩悩にまみれたものまで

「顔なき声」に変貌して赤裸々に、声高にわたしたちのもとに届くようになった

「届かなくてもいい声」が届くようになってしまったのである

これをマスコミも追随していくことでさらにエスカレートさせていく

もうカオス、混沌とした社会・・・



さまざまな技術の向上が便利にして、快適にして、命までも生きながらえさせた

しかしその果てに待っていたのは人間にとって「大いなる矛盾」ではないか?

すべてを叶えるとすべてが窮屈になる社会しか待っていないのではないだろうか