自分の最大出力はどのくらいなのか?

ふいに頭に浮かんだ疑問だが

自分自身を知ることはある意味怖い

どこまでできる人間なのか?っていう疑問は

誰しも一度は考えたことのある問題



でもやってみなきゃわからないもんだよね~

っていう結果になるケースはたくさんあるはず

シリゴミしてるのか、本当にケツにトイレットペーパー付けてるのか・・・



自分に必要な知識をうまくまとめたものを学習し、習得して

知はかよっていても、血がかよわないままで自分を肉づけしていく

明確に存在する洗練された「たしかなこと」を身につけること

これはいってみれば簡単なことで、単なる記憶力の問題だ



でも人にものを教えるとき、いまの時代に本当に大事なことは

1から10までが連なってあるとすれば、それを全部を教えないこと

いまの世の中はネットで検索すれば答えが出てくる

これが一番味気ないし、人間がホントの意味で成長しない一番の禁止薬物



1から3まで教えて、あとは自分の頭で考えるんだよ

そう突き放すことも実は成長の糧になる

だが、その環境が昔と違って成立しづらい

流されるまま、考える時間を省きたがり、めんどくさがり

自分で主体的に思考しない人が増えすぎてしまった



1と2を教えて、5と8を教えて、10を教えた場合・・・

1と2をベースに、3と4を5から推測し、逆算する想像力が養われていく

3と4を導き出したら、1から5までの関係性と

8から逆算した6と7を想像し、展開してみる・・・



そして、10という最終到達地点から逆算しつつ、1から8を総合的に判断して

10という最後の結末に至るための最後のパーツの9は何だろう、と・・・

これがまた難易度が高く、気づけるか気づけないか微妙なところにあったりする

そうやって一人前という10に到達して、誰もが道のりの過程を共有する



このプロセスが、「生きた」人を「活きた」経験によってつくり上げる

言わば、理想的な成長曲線の描き方

これができなくなった世の中はなんだかさみしい

答えを知ってると味気ないもんです



過程を楽しめない時代に必要なのはなんだろう?

(自分で)やらなきゃ意味ないよ(某監督のことば?)

ある意味でこの言葉は正しい



受け手が脆弱になってることへの伝える側のジレンマ

正しいことを教えてほしい側の要求と

経験を経て失敗もして成長する、自分で応えをつかんでほしい側の願い

同じ共感ポイントには永遠にたどり着けない構図ですね