人の失敗を笑うな!とはいうものの
笑うことで救われることもあるかもしれない
笑う、に対する受け取り方の問題でもあるのではないか
①失敗した→②恥ずかしい→③バカにされた
こういう思考の回路があるのだろう
しかし、笑う側には少し違う意味で笑っていることもある
それは失敗した当の本人も、薄々は気づいているはずだが
②の恥ずかしいという思考が上回り、すべての分かれ目になっている
①失敗した、とはどんな人であっても遭遇する現実問題である
失敗をどう捉えるかで、②の反応は変わってくる
失敗した本人主体で考えると、もちろん失敗の体験を
それまでの人生でしてこなかった人、大事に大事に育てられた人
ケンカや争いごととは無縁で感情の吐露の仕方がうまくない人など
いろいろいるだろうと思う
失敗に自分自身が「慣れていない」から自分を恥ずかしく思うのだろう
極端な話、失敗は逆転の発想をすればのちに「おもしろい話のタネ」になる
自分を逆に許して、笑ってやるのが一番いいのだ
笑ってやれば話のタネが、笑い転げたことで、転じて話のネタに変わる
そう捉えられなくもないのではないか?
一方で失敗した人を笑う人はどうだろう?
仕事でも私生活でも失敗は誰もが経験する、遅いか早いかだけのものが多い
かつての自分に重ねながら、あたたかな励ましの笑いでもあるはずだ
もちろんこれを感じられない当の本人の人間性の問題もあるが
大抵は、バカにしてはいないことが多い
本気でバカにしている人がいたとしても、当の本人が笑っていれば
バカにしている自分が逆に恥ずかしいことに気づくはずだ
失敗を笑おう!
恥ずかしさを恥じるな!
そうすれば少し自分も相手も見方を変えて、味方になるかもしれない
これもダジャレととるか、韻を踏んだシャレととるか
ワタクシは後者であり、書きたいと思ったから書くのだ・・・
それでいいとポジティブに思っている
その言葉が降りてくるのを心から楽しんでいるのだと