人間は「考えること」を楽しむことができるのか
普段、目に飛び込んでくるもの、起こった出来事やニュース、事件、事故
あらゆる出来事について、私たちは自分なりに思うことを考えている
そこで生じる思うことを誰かに話す、文章として書き記すなどして
アウトプットのかたちを自然ととることができる
人によってはSNSなどでつぶやいてみたりもする
考えることとは、非常にシンプルだが抽象的であいまいでもある
誰かの意見を聞いて「そうそう!そのとおりだ!」と思うこともあれば
「違うよ、それはそうじゃない」と否定したくなることもある
それらは自分が見たり聞いたりしたこと、経験してきたことから
導き出している結論でもある
しかし、ここで思考も歩みも止めてしまうのが残念だなと思うのです
考えるとは、そこからさらにアレコレと枝葉を伸ばすように
良くも悪くもいろいろな方向に想像してみることではないか
このもう一歩先に進むために使ってはいけないのは知識だろう
知識として知ったことは、自分自身が考え抜いた末に導き出したものではない
誰かが見つけた、誰かがまとめた意見をそのまま教えられて理解しているだけ
「考えること」そのものは、外側からの知識という情報で得るものではなく
情報のない状態の自分自身の内側から発せられる大きな問いかけでもある
つまりインプットではなく、アウトプットこそが考えることの本質だと思う
「考えること」=「アウトプット」とするならば
アウトプットする楽しさとはどういうことだろうか
それはひとつのフレーズから想像をふくらませながら
次々と展開させていく面白さ
イメージをふくらませながら、こういう風に転がっていくこともあるのかと
意外な結末が考えることの先には待っているのかもしれない
自分自身のアタマのなかでイメージをしながらそれを言葉で表現する
「イメージは浮かぶんだけど、うまくことばにできないな~」
なんて苦しみも味わったりもする
「ここまで(のどもとまで)出てるんだけど思い出せないな~」とは
まったく質の異なるものである
でもそれはそれで、考えることをして初めて感じることができた苦しみであり
普段、自分が生活の中で感じる苦しみとは清涼感が異なるものではないだろうか
苦しみを感じながらもニヤけてしまうような感覚ですらある
現代は「考えること」に触れさせないように
すぐに答えを届けてくれる便利な社会である
便利なことは、何も考えずただ従う場合には非常に快適にしてくれるものだ
しかし、ただ消費していく社会や生活に飽き飽きしている人
それに疲れてしまった人には
「考えること」そのものがイキイキと生活や人生を
みなぎらせてくれるものになるのではないかと思うのです