快適なくらしをあえてグレードダウンさせる
こういう方法をとることが人生を社会を豊かにすることもあるのではないか
この視点もこれから大事になってきます
なにもかも満たされながら育った世代が増えていくなかで
わたしたちのような不便な時代を経験していま便利な時代を生きる世代は
なにをすべきなのか?
モノからコト、に時代は満たす欲求が変わっていく
前回は我慢というキーワードに焦点をあてて考えてみました
それしか方法がなかった、ひとつひとつ片づけていくしかなかった
そういう時代の経験をいまの若い世代にしろというのは
ハッキリいえば無理ですね(笑)
不便な時代に生まれた人間でさえ、いまの時代に生まれていたら
同じようにいまの時代の便利なもののなかで生活するのが当たり前になる
でも、でもですよ・・・だからといって見ないフリはやっぱり違う
不便さを知っているわたしたち上の世代はその貴重な体験をもっているからこそ
別の視点で物事を見ることができるともいえるのですよね
大いに違うのが、人と人とが相対してコミュニケーションをはかること
それが当たり前の時代で、そのなかでお互いを認め合い、許し合い、補い合ってきた
これが本当の意味でのリアル、なんですよね
面と向かって何かを為すということに慣れないまま
自分の快適な空間を満たすことに慣れてしまったのがいまの若い世代です
現代のクレーム社会の構図のポイントは自分を満たすこと
しかしこの責任はなにも若い世代に押し付ける問題ではない
むしろその社会を構築してきたのは我々とその上の世代です
利便性とビジネスの思惑のなかで「めんどくさいもの」として棚上げにしてきた
気づいたときは若い人に「なぜそんなこともできないんだ?」と詰問する
でも自身が育った時代はみんなが叱って、みんながホメたりけなしたり
みんなが関わり合うなかで培ってきた賜物であり
それが自身を支えるこころの財産になっているんです
大事なことを困難を経験して成長するということに免疫がない世代が
壁にぶち当たっても助けられないこころの有り様、他人行儀な溝のある空間
大人が助ける術を持てなくなった、怖がってしまった、遠慮してしまった
その結果がいまの複雑な距離感の人間関係につながってしまったのではないか
「昔はこうだったんだよ」と伝えること
これがいまの時代に説得力をもたないのは事実です
なによりシラケた雰囲気にしか受け取れないし
なかなかその視点で物事をみれないのは仕方がないかもしれません
本当は大事なことが隠されていてヒントが散りばめられている
その時代に生きた証しを「むかしを伝えること」を上の世代が
しかもふつうの一般の人たちがなんらかの形で遺していくことも
大事な使命であるのだと思うのです
いつの日か、ネットの世界の片隅に転がるコトバや知恵や教訓が
未来の人間のために、少しでも役立つように
トモシビとしてつないでいけたら・・・
そのための活動を起こしていこうと思っています