いまの若い人間たちは自分を尊重してほしいという主張が先にくるんですね

そこを絶対に曲げない正義はどこで培われたのでしょうか

しつけや、学校教育、テレビ、ネット・・・

いまはさまざまな場面で個人の権利を尊重「しすぎて」きたことの弊害

これがあるんだと思いますが人生すべてにはあてはめてはダメ



さんざん書いてますが、回避世代だといえるんでしょう

マイナスとなる出来事すべてを避けたい、不快になりたくない

本人も回避、親世代も回避させるという社会で育った結果がこうなってしまった

すべてに対して要求に応え、最適な状況をつくり与え続けると

人間はストレス耐性を失い、跳ね返す力が弱い人間が育つということでしょう

ビジネスの名のもとに人間を退化させ、進化するのは機械ばかりでしょうか?



あんまり真面目な社会を目指さなくてもいいと思うんですけどね

いろんな環境に人はいますよ、それなりのハンデも抱えて

でもみんなを救うことで全体のバランスが大きく崩れる

そういう仕掛けが社会にはあって善と悪がバランスをとってるんだろう



個人の尊重を欲するのに、自分では面と向かって傷つきたくない

何度も言いますが、自分の主張をするのであれば

相手の主張も受け止める必要がある

主張が正論だとか論理的だとかそういう問題じゃなくて

恥ずかしさもみじめさも経験してみようということです

それをネタに笑えるくらいになれるんですよ



普段から馬鹿にされなれてないのも原因のひとつですね

下に見られたくないプライド?

世の中上には上が星の数ほどいますし

その抵抗が労力のムダなんです



いまの中高年も嫌なことはやっぱり嫌で

回避したい気持ちはあった

当然嫌なんです、人間ですから

でも時代に選択肢はなかったから従って、我慢して乗り越えた

その乗り越えた先に成長した自分を実感できてる人が多い



「過ぎてみれば、いやなのは最初だけだったな」

「腹くくって遮二無二やってたら乗り越えられてた」

「できないと思ってただけで、やってみたらできるもんだね」

「あんな恥かいたけどいまでは、いい思い出だよ」

「あれがあったからいまがあるんだよな」



ここが伝えられない時代になってしまった上司たちの気持ちも

考えてみてください

上司が若手のために降りてくる、これを上司にさせてしまうのは

人として礼儀としてもとても恥ずかしいことです

これはあなたの親や祖父母が笑われ、学校が笑われ、慕う恩師が笑われてる

それと同じことなんです



若い人が思っている以上に経験を言葉で伝えるのって難しいことなんです

どうやって言葉覚えたか自分の年下の子にわかるように

説明してみようとするとわかります

なんでも答えがあるわけではない、正解がないのが私たちの社会であり

伝わりそうで伝わりづらいのが世の中、みたいなところです



おそらく同じ立場になって、はじめて気づくことだと思いますが

そのときになってみないとわからない感覚であり

言うことを聞いてみるという選択は

結果を知る、ソノサキを知る人の話すことならば

信頼してみる価値はあるはずです



1年で10歩すすむとすれば、1年の経験では10まで。10年では100まで知る

1年は10までの知見

10年は100までの知見を持っている



1年は11~100までの知見を持っていないのです

10年の人は、その11~100までの間に

失敗も反省もして次に活かし、それでも認められず

でも頑張って、頑張り続けて

成功して100になったことではじめてわかる景色を知っている



そこの経過を知る人のことばは信頼するべきだし

教える側もつないでいく必要のある大事な役目だと認識してほしいですね