近年特に顕著なクレームへの対応を、どこまでするべきか?という問題
何か見えない敵に必死で守りを固めることで
心理的に安心感を得ているだけで、対応したことで満足な姿勢で
なんら解決しない場合が多く、自分たちで袋小路に追い込む
そんな気がしてならないですね
顔の見える相手で、改善をしてほしいと面と向かって要求し
相手と自分の将来的な利益になるべきものであること
自分に非があり、改善すべきことが正しい解決である場合に
改善すべきだと決定するものだと思うのです、まわりくどい表現ですが(笑)
本来、顔の見える相手に面と向かって改善を要求することは
相手も勇気のいることで、それだけ本気である証拠です
ネット上で気軽に発言することとは責任の重さが違うのです
なんというか、ネットを介したクレームや世論に引っ張られすぎて
自分たちの社会を息苦しくしている感がぬぐえない
実は文句をつけることでミッション終了してる
クレームもどきの発言は自分の外に吐き出した時点で
無責任に終了していると思うのです
それを社会が、あおって知らしめ、おとしめるような思惑にも
もう飽きてしまっている
それが大多数の意見でしょう
環境や生活が便利になることで物質的には発展してきましたが
逆にその発展によって、人間のズルさみたなものが浮き彫りになってくる
人間って昔からそんなもんだよ、で解決してしまって
物質的にただ溺れることに人として不甲斐なさを感じてもいるはず
人口減少も、環境問題も、生活環境もあらゆる場面で
過去の時代と同じように、いまをただ生き抜く歴史の積み重ねでしかない
そう結論づけてしまうのは早計な気がします
その結果が先延ばしにするということにつながってきたのです
見て見ぬふりが、負の歴史の積み重ねの意味だと思いますね
生活をよくしたい、いい暮らし、幸せな生活を送りたい
嫌なことはしたくない、不快な思いをせず快適に暮らしたい
わかりますよ
でも全部を叶えてしまうと、そのぶんどこかにひずみができます
ひずみを緩和するにはひとりひとりが
我慢すること、認めること、正しすぎないことだと思うのです