少し趣向を変えてお笑いの話から発想してみます
自分の小さいころからもそうですがいつだってテレビのお笑い番組は
教育上よろしくないと批判の的になってきた歴史があります
いじめを助長するだとか、ひとつの局面を切り取り正当化してきた歴史です
果たしてお笑いというエッセンスは生活や人間関係において無用でしょうか?
こんな番組見せてはいけない、という世代の親は
こんな番組を子供のころ見て育ってきました(笑)、なんということでしょう・・・
この矛盾めいた話は、なにもお笑い番組だけに限ったものではありませんが・・・
実は正しいことと悪いことは奇妙にバランスをとって世の中成り立っている
そんなイメージはありませんか?
認めたら終わりみたいな気持ちもなくはないのでしょうが
どちらかが欠いた人間はときにバランスを崩しがちです
ワタクシ世代はもろにダウンタウンの影響を「受けてしまった」世代です
彼らの生み出す笑いはときに残酷で、ときにセンチメンタルです
そのギャップが笑いを生んでいる、笑ってしまうのです
清濁併せ持った複雑な印象が残っているといっても過言ではないはずです
しかし、その薫陶を受けたわたしたちは良いオコナイも悪いオコナイも
学校や社会で彼らの真似してみたりすることで、学んだ気がします
「酸いも甘いも嚙み分ける」そんなオトナの理不尽な事情もひらりとかわす術も
知らず知らずのうちに学んできた気がするのです
昔ワルかった人がオトナになるとカドがとれてほどよく丸くなって
人として字面どおりに円熟味を増していきます
もちろん昔のまんまの、ワルイ人もいらっしゃいますが(笑)
総じて、人として痛みもわかる人間に育ってきたのではないでしょうか
それは、ワルイことを経験したことがのちの人格形成においても
複雑に調合されたスパイスのごとく、活かされているのではないかと
両方を知ることは決してマイナスにはならないという切り取り方もできるのです
一方で良いコトだけを、正しいことだけをしてきた人もなかにはいるでしょう
そういう人は得てして自分の論理ばかりを主張しがちになります
〇ばかりを学び、教えられて、✖を経験しないまま社会に放り出されてしまう
するとオトナの理不尽さに面をくらってしまい、耐えることができずに
挫折してしまい跳ね返すチカラもなく逃げ出してしまう
なぜそんなことを言われなきゃならないのか?と怒りがこみあげてくる
自分の正当性を主張してなにが悪い!ってなりがちですね
しかし、清濁併せ持った経験があって〇も✖も知る、調合スパイスのような人は
社会に出てその荒波を乗りこなしていく術を自然と理解していくのではないか
そして、しなやかに受け止めたり受け流したりすることが身につくのではないか
学校で軽い気持ちでいじめに加担した子も、社会に出れば逆にいじめの対象になり
いじめられるってこんな気持ちなんだな、って思いなおすこともあるでしょう
✖なことも、ことと次第によっては役立つ場合があると考えて差し支えない
そういえることもあるのではないでしょうか