できないのは当たり前だからキチンと教えてほしい

という類いの主張がよく見受けられます、そこかしこで

一瞬正論にみえるが、自分の不足している部分を

自らが肯定的にとらえるのは言われた相手にとってはどうだろうか

教える側の上司等もみな、同じように未経験の時期を過ごした

おそらくはもっと酷いハラスメントの時代である


経験ないのになんだその態度は?→ムカつくやつだ

それがものを教わる態度か?→ムカつくやつだ

教える側も腹が立つと少し判断が冷静でいられなくなるもの

でも、そういう態度をとってしまった方が事の発端でもあります

かくいうワタクシも過去に某職場にてそのような態度を

とってしまった記憶が、恥ずかしながらあります

まだ血気盛んな時代で自分が納得いかないとやる気も行動も起こしたくない

おそらくそういう判断を当時は、してたんです、恥ずかしながら

思い上がりもいいとこだと気づくのは後になってからです


実は若い時期、経験が不足している時期、まだ全体が見えていない時期

そういうときには求める理想像が先行して見えていない部分が多い

つまり、見えていない部分の価値やその困難を乗り越えた経験の先のこと

それを経験者たちは、もれなく理解し、ひとつ大きく成長しています

どこかで妥協し、甘えをみせる瞬間が心のなかに潜んでいることも知ってる

口に出して言わないけど、負けるな~がんばれ!!って思ってるんです

もちろんいますべての職場でそうだとは言いませんが


ひと昔前は家のしつけから怒られ、叩かれ、泣かされ、悔しさを経験して

それこそ順調に人としてのステップを踏んでオトナへと成長していました

学校でさえ、怒られ、叩かれるのはオトナになって社会に出たときに

困らないようにという配慮が、愛情が隠されていますが

殴られた、ひっぱたかれたとなるとより印象に残っています


これらの正しさをその当時に理解するのは私も困難でした

しかし自分も不思議と先生を嫌いになることはなく

怖い、嫌だと思うことがあっても怒られるようなことしたからなぁ

そりゃ怒られて当然なほど、自分に非があったことが多いんです

そう思えるかどうかがしつけが正しかったかどうかの分岐点でもありますが

やはり、いろいろと経験を積んで、あとになってわかること

あとになって気づくことなんです


もちろんストレス耐性が低くなってることや甘やかされてきたこと

叱られた経験が不足していることなど、いろいろほじくればあります



しかし、叱られることを負けだと思わず、恥ずかしいことだと思わず

一度、素直に受け止めてみる選択をしてみてもよいかもしれません

素直に心を開いてみると、他人は意外と、あっ開いたんだなと気づいてくれます



一度閉じるとなかなか開けにくくなりますが

だからといって、開かなくなってるわけではないんです