団塊世代の功罪はあろうがそこを責めたてたところで何か進展するわけでもない

考えてみるとどの世代であっても最終的には社会のお荷物になっていくのである

それを悲観しようがしまいが等しく皆、老後を迎えお荷物になっていくのだから

次の世代のために何をすべきかを考えていくことを、自分たちができる範囲で

できるうちに取り組んでいくこと、伝えていくべき知恵や教訓を遺していくこと

これが重要になってくるのである

団塊ジュニア世代の自分もトータル的に不遇な時代で生きてきたからこそ

より負担が増大していく未来のために何ができるか、生きているうちになんとかと

私自身思うようになってきました

私たちの世代は年金をむさぼることはないだろうし、できないだろう

いまの年金世代よりも社会的な負担が増大し、それを等しく強いられながら

貯蓄もできず、今日を、今週を、今月を、今年を生きるために切り詰めて

それを受け止めて、生きていかなければならないはずである

自身の人生を振り返り、満足感に浸りながら静かに目を閉じる

そんなふうに、平和な世の中で自分の生活を豊かにして老後をただただ可愛い

孫たちに囲まれながら、いい人生だったと笑みを浮かべて最期を迎える人は

どれほどいるだろうか


それぞれが自分の幸せだけを願うことが、社会全体を前へと押しやる活力となる

時代もあったが、果たして人口減少が負担増大となって様々なゆがみ、ひずみが

生じてくると予測できる時代でも同じことがいえるだろうか

仕事が無かった、賃金が低かった、結婚できなかった、子供ができなかった…

必ず、必ずしわ寄せはあとの世代にかかってきます

いつの日か、受け入れがたい現実も受け止めなければならない局面にも遭遇する

そのとき自分のためでなく、社会のため、他人のために犠牲を払うことができるか



便利さを享受すると人間は快適であったがゆえに、不快さを心の底から嫌がる

便利な快適な環境が生まれた時からあった世代はもちろんのこと

小さいころ貧乏や不幸のどん底を経験した世代でも、成功して裕福になったら

自らの生活を不快にできず、生活レベルを落とせなくなってしまう

思い出してほしい、なくても生きてこれるし生きてる人もいる


自分のしあわせだけを願ってはいけないのか?

ごもっともである

しかし未来永劫、世代をつないで受け継いでいく過程にいる、そのなかの一人

であることも自覚しなければならない

どんな時代でもいま現在がこの瞬間を生きる人たちが一番難しい選択を

迫られているのである

次世代のために果たしていくべき責任からも私たちは求められている

痛みを分け合えと

ビジネスは、どんどんオモシロイもの、楽しいもの便利なもの、快適なものを

提供し続け、購買意欲を刺激し社会でお金がまわる

しかし現実から目を背けさせるのも便利なものたちのシワザであろう