出たがり江沢民の罪と罰
習近平がメルケルに渡した江沢民本の英語版が14日、フランクフルトブックフェアで大々的に世界初お披露目された。「中国IT産業の発展」と「中国エネルギー問題研究」にそれぞれ「編集協力」した党中央文献研究室主任の冷溶と上海交通大学校務主任の馬徳秀が、わざわざドイツ出張して祝辞を述べている。(写真↓は冷溶)

「エネルギー」08年、「IT」は09年にまず中国語で出版された。「IT」は計27本の論文、講話、報告、文書で、「エネルギー」は2本の論文と1本の講話でそれぞれ構成されているのだという。
今回の英語版のフランクフルトお披露目の狙いは、もちろん習の援護射撃である。ただ「IT」と「エネルギー」というテーマ選定に意図的なものも感じられる。単に今後の中国が重視する分野であるというだけでなく、「利権」の匂い、である。
■□朱鎔基の自信、江沢民の過信□■
江沢民はすでに「江沢民文選」1~3巻ほか数冊の著書を出版している。「矛盾論」「実践論」を始めとしてそれこそ山のように著作がある毛沢東や、いまだに「黒猫白猫論」や「石を探って川をわたる」といった言葉が世界中で引用される鄧小平に比べて、「三つの代表」ですらほぼ忘れかけられた江沢民の「文選」は、明らかに軽い存在だ。
今回の出版にはそんな状況を何とか挽回したいと願う彼のいじましい思いもなんとなく見て取れる。それにしても、出れば出るほど逆効果になっていないか。
「亜州週刊」が10月18日号で朱鎔基本の売れ行きについて報じている。なんと、120万部(!)を売っているのだそうだ。「建国60周年記念式典で81歳になった白髪の朱鎔基を見たネチズンたちは、掲示板に『感動した』『残念だ』『鬱になる…』といった書き込みを次々と残した」と伝えている。
歴史的役割の異なる2人をあえて並べて論じても詮無いことではある。だが、時期が時期だけについ比較してしまう。江沢民がいまだに出しゃばるのは、明らかに自分に対する過信、さらに言えば自信のなさの裏返しである。逆に朱鎔基が万事に控え目でいられるのは、自信の表れに他ならない。
引退して7年経ってもなお過去の自分の亡霊に引きずられるとは、何と悲しい人生なのだろう。自分だけでなく、中国と中国人も傷つけている。そんな姿を見ていれば、習が辞表を出したくなる気持ちもよく理解できる(ガセネタでなければ、だが)。

「エネルギー」08年、「IT」は09年にまず中国語で出版された。「IT」は計27本の論文、講話、報告、文書で、「エネルギー」は2本の論文と1本の講話でそれぞれ構成されているのだという。
今回の英語版のフランクフルトお披露目の狙いは、もちろん習の援護射撃である。ただ「IT」と「エネルギー」というテーマ選定に意図的なものも感じられる。単に今後の中国が重視する分野であるというだけでなく、「利権」の匂い、である。
■□朱鎔基の自信、江沢民の過信□■
江沢民はすでに「江沢民文選」1~3巻ほか数冊の著書を出版している。「矛盾論」「実践論」を始めとしてそれこそ山のように著作がある毛沢東や、いまだに「黒猫白猫論」や「石を探って川をわたる」といった言葉が世界中で引用される鄧小平に比べて、「三つの代表」ですらほぼ忘れかけられた江沢民の「文選」は、明らかに軽い存在だ。
今回の出版にはそんな状況を何とか挽回したいと願う彼のいじましい思いもなんとなく見て取れる。それにしても、出れば出るほど逆効果になっていないか。
「亜州週刊」が10月18日号で朱鎔基本の売れ行きについて報じている。なんと、120万部(!)を売っているのだそうだ。「建国60周年記念式典で81歳になった白髪の朱鎔基を見たネチズンたちは、掲示板に『感動した』『残念だ』『鬱になる…』といった書き込みを次々と残した」と伝えている。
歴史的役割の異なる2人をあえて並べて論じても詮無いことではある。だが、時期が時期だけについ比較してしまう。江沢民がいまだに出しゃばるのは、明らかに自分に対する過信、さらに言えば自信のなさの裏返しである。逆に朱鎔基が万事に控え目でいられるのは、自信の表れに他ならない。
引退して7年経ってもなお過去の自分の亡霊に引きずられるとは、何と悲しい人生なのだろう。自分だけでなく、中国と中国人も傷つけている。そんな姿を見ていれば、習が辞表を出したくなる気持ちもよく理解できる(ガセネタでなければ、だが)。