新月から5時間がたつ。フルムーンウォーター作ってから寝よう(もちろんあの青い瓶など持ってないけど)と思いながらこたつでうたた寝。
結局作らぬまま夜中に起きた息子を寝かしに布団に入り、それから私は寝つけず4時半にごそごそ起きだした。フルムーンウォーターは作れなかったけど、ならば自分が月光浴すればいいやと生姜をたっぷり入れた甘酒を片手に外へ出た。いつもより暖かい夜。
真っ暗な星空を堪能してから部屋に戻ると中の気温は10,6℃だった。やっぱり暖かい。明日のお天気は下り坂だろうか。それとももう本格的な春がそこまでやってきてるんだろうか。
布団の中で、星を眺めながら、ぐるぐる色んな事を考えていた。
離乳食のこと、予防接種のこと、おっぱいや妊娠中の体のこと、食事や健康法のこと、ナリワイのこと、お金のこと、これから始まる田んぼや家の修繕のこと
それでふと思った。宇宙的に見て「正しい」とか「正しくない」というのは存在しないというけど、それは言い換えるときっと、「今何が必要か」は人それぞれその人の今この瞬間の体や心、細胞の状態によって違うということなんだ、と腑に落ちた。
この生き方が正しい、この農法が正しい、この食事方が正しい、この育児法が正しい、、、もしかしたら「より健やかに生きられる」みたいなものはあるのかもしれない。
けど、それは「正しい」こととは少し違う。
例えば、玄米菜食を厳格に実践しすぎて体調を壊し、今度は一転糖質制限の食事法を推奨している人を見たことがあるけど、どちらの食事法が正しいとか間違っているというわけじゃなく、きっとその人の体や心が欲していた食べ物は生きている限りどんどん変わってゆくのに、食べているものが「○○法」に縛られた範囲内のものだけだったために、移りゆく心身の状態に必要な何かが欠けてしまったんだろう。それは肉だったかもしれないし、バターだったかもしれないし、白米だったかもしれない。
1月から本格的に冷え込むようになり、自然と玄米を炊くことが多くなった。寒い時期、味噌汁に、漬けもの、魚の干物に玄米が最高のご馳走に感じられる。白米、白パン精製したものが大好きな夫も、文句を言わず黙々と玄米を食べている。
真夏は玄米なんて全然食べたくならない。
あまりにひどい便秘に悩み、少食を始めて1か月がたつ。おなかがぐ~となるほど少食で過ごすと本当に清々しい。でもいくら少食と言っても、毎日体が欲している量も食べ物の内容も違うということに気付いた。
例えば鶏のエサを仕込む日は、火を焚いたりぬか袋を担いだり魚のアラを混ぜ込んだり、とにかく私にしては体を良く動かす。そんな日は卵や肉のおかずを食べたいし、ご飯も美味しくて仕方がない。食べた瞬間から体が待ってました!と栄養をじょわ~と吸収してる感じがする。
山で木を切る肉体労働をする夫と専業主婦の私と4歳の息子。体が欲するものはみんなそれぞれ。だからうちは菜食!ビーガン!糖質制限で穀物はなし!とかにはならないし出来ない。
もうひとつ、物質的にも感情・心理的にも敵を作らない生き方について。
東洋医学では病気は敵ではないと言われている。例えば癌は放射線や抗がん剤で撃退するべき敵ではなく、血液の浄化装置。
先週まで2か月近く原因不明のひどい咳が続いていて、治れ~なおれ~しんどい~と症状を完全に敵扱いしていた。痰絡みの咳になってきた時、「あ、体の外に要らないものを出してくれてる咳だったのか」と思いを転換できた。その後1週間で嘘のように咳は消えて行った。
リーキーガット症候群の人が増え、グルテンフリーが流行っているけど、敵は本当にグルテンなんだろうか。解決策はパンを食べない、パスタを食べない、小麦製品を生活から排除することなんだろうか。イタリア人がグルテン不耐症になったら、米粉のパスタを食べるんだろうか。
グルテンは確かにアレルギー症状を引き起こすし、小麦のお菓子やパンは少し口にするともっと食べたくなる。小麦には確かに中毒性があると私も体で感じる。
でもパン種をおこしていて思った。グルテンや小麦自体が体の敵なんじゃない。昔の人も、家や野菜や果物に住みついている菌が小麦と水を練った物を膨らますと知って、美味しいパンになるんだ~!菌が美味しくしてるのか~!とわくわくしてパン(のようなもの)を作ってたんだ。

(右上が発芽玄米ヨーグルトと一昨年収穫した全粒粉で起こした酵母)
市場に出回っていて私たち消費者が一般的に買える小麦は、昔の人がパンのようなものを焼いていた時代の小麦とは全く別物だ。
*過剰に品種改良され、農薬たっぷりで栽培され、真っ白に精製された小麦。それ自体は善でも悪でもない。なぜそれが産み出され、市場を占めているのか。
*新生児のアトピーやリーキーガット症候群、なぜ腸がそんなにも傷ついているのか。何が腸壁を傷つける原因なのか。
この2つを同時に掘り下げたら結局現代の生活の在り方(生産性ありきの大量消費社会)や産み方(病院・管理出産)、教育(家庭や学校での思い込み、刷り込み)等々に行きつく。
ここでもやっぱり何が「正しい」はなく、気付くこと、「思い・設定」を変えることが有効なのだと思う。私の言語能力では捉えたことを上手く文章化できないけれど。
そんなことをつらつら考えていた早朝。
あーウグイスが鳴きだした。さぁ一日を始めよう。