…
爽やかな五月の午後、荷物をしょった ひとりの洋傘直しが
ある農園にやって来ます。

「私は洋傘直しですが、何かご用はありませんか
もし、ハサミでも研ぐのがありましたら、そちらの方もいたします。」

農園の園丁は 数丁の剪定バサミと
ついでに自分用の西洋剃刀も 頼みます。
『太陽は今はすっかり 午睡のあとの 光のもやを払いましたので
山脈も青く輝き、さっきまで雲にまぎれて わからなかった
雪の死火山も はっきり トルコ玉の空に 浮きあがりました。』

洋傘直しは ポタポタ汗を落としながら、
青空をうつせば青くぎらっと光るほど 剃刀を研ぎ上げますが、
剃刀の分は 『お負け』 だと 代金を受け取ろうとしません。
「それではあんまりだ。
そんならまあ 私の作った花でも見ていってください」

園丁は 自分が育てた チューリップの花壇に
洋傘直しを案内して、花を指さします。
「ね、この黄と橙(だいだい)の大きなぶちは
アメリカから直に取りました。」

「こちらの黄いろは見ていると頭が痛くなるでしょう」
「ええ。」
「それからこれはまっ赤な 羽二重のコップでしょう
ですから みんなで欲しがります。」
「ええ、全く立派です。赤い花は風で動いている時よりも
じっとしている時のほうがいいようですね。」

「ちょっとあいつをごらんなさい。
ね、あの白い小さな花は 何か不思議な合図を
空に送っているように あなたには思われませんか」
「ええ、そうです。そうです。」

「おお、湧きあがる、湧きあがる。
花の盃を あふれて ひろがり湧きあがり
ひろがりひろがり もう青空も光の波でいっぱいです。
さあ どうです。一杯やりましょう。
チュウリップの 光の酒、さあ 飲みませんか」
すっかりチュウリップの光の酒に 酔った ふたりには
まわりの木々が 踊っているように見えます。

「むこうの トウヒが なんだか揺れて 踊りだすようなのですよ。」
「なあに 心配ありません。
どうせチュウリップ酒の中の景色です。
いくら跳ねてもいいじゃありませんか。」

「それより 向こうの くだものの木 の踊りの輪を ごらんなさい。
まん中にいて きゃんきゃん調子をとるのが
あれが 桜桃の木ですか」

「いいえ、あいつは油桃です。
どうです。行って仲間に入りましょうか」
ところが木々がはしゃぎすぎて大混乱に…
「火です。火がつきました。
チュウリップ酒に火が入ったのです。」
「いけない、いけない。はたけも空も みんなけむり、しろけむり。」

やっと チュウリップ酒の酔いからさめたふたり…
「ああ、もうよほど経ったでしょう。
チュウリップの幻術にかかっているうちに。
もう 私は行かなければなりません。さようなら。」

よろよろと荷物をしょって、
妖しい花をちらっと見ながら去っていく洋傘直し を
何だか青ざめた顔で しばらく見送る園丁。
太陽はいつかまた雲の間にはいり
太い白い光の棒の幾筋を 山と野原とに落とします。
「チュウリップの幻術」は いかがでしたか?
実際に 田園に出掛けて行って
「賢治はきっとこんな風景をイメージして これを書いたのかな」
と思うような植物や風景をカメラに収めました。
でも、実際とは違うものもあります。
すももの垣根や、桜桃や油桃などは 見つからなかったので、
違う樹木を使いました。
でも、きらきらと輝きながら 降り注ぐ五月の 光の中で、
チュウリップの花に見入っていると
たしかに 『チュウリップの光の酒』に
うっとりと酔わせられるような気分になりますね。