震えるリング その4 | 珈琲にハチミツ

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奇妙な人間関係だった。


新日本プロレスの門を叩き、合宿所に入った初日の事を蝶野はおぼろげながら記憶している。それは後に終生のライバルとの出会いであった。


「まず、自分だけが入門したと思ったら、同じ日に黒服着てオヤジみないな格好をしたのが入ってきて『誰だ。こいつ?』って思って……それが武藤さんだった。それから、背広着た体のデカイ奴が二階から降りてきて『なんだ、こいつは?』って……それがブッチャー(橋本)ですよ。」


蝶野と橋本はこの日、洗濯機の取り合いで早速いざこざを起こしているのはけっこう有名な話である。(ちなみに後日乾燥機の取り合いでも言い争い、後藤達俊が甲州ワインを一気飲みさせて仲裁している。)


その時1984年はまさに激動期の真っ只中。長州力率いる昭和維新軍の離脱をはじめUWFの設立と離脱者が相次ぐ非常事態下であった。後にアントニオ猪木が命名し「闘魂三銃士」と名付けられたこの三人は仲間意識というよりも、自分だけがうまいメシを食ってやる。いつか出し抜いてやるといったハングリー精神でもって、時に反目し合い、時に手を組みながらも誰ひとり脱落する事なく時代を駆け上がっていった。おそらく三人に仲間意識が芽生えたのは橋本が独立し、武藤の移籍騒動が落ち着いてきた頃だろう。そして2005年7月、橋本の死によっていよいよ運命共同体である互いの存在をよりハッキリと自覚したのではないだろうか。



7月30日

故・橋本真也 プロレス界・プロレスファン合同葬が執り行われた。会場である青山葬儀所におよそ8000人が集まり、最後は蝶野が盛大なコールによって橋本を送り出した。「イーチ、ニー、サン、ハシモトーッ‼︎」


そして8月がやってきた。


先のノアドーム大会を経て再び勢いづいてきた感のある「純プロレス」。もはや死語と化したこの単語だが、2005年当時はまだまだPRIDE全盛の時代、プロレス界きっての盟主・新日本はリング内外のゴタゴタの影響が残るせいか青息吐息もいいところで、いよいよ盟主の座をノアに獲ってかわられるのではといった雰囲気であった。が8月を迎えると、G1クライマックス開幕がいよいよ近づいてくる。新日本が年間で唯一純プロレスに集中できる聖域といっていいこのシリーズ、巻き返すにはここしかない。



…結果的にこのG1で橋本は念願の里帰りを果たす!


8月14日

両国国技館の決勝に向かうのは蝶野正洋と藤田和之。コンディションが優れないなか老獪なテクニックを駆使してなんとか意地で上がってきた蝶野が、圧倒的なフィジカルで準決勝で川田利明を粉砕しノリに乗っている藤田から勝利をもぎ取れるとは思えなかったが…ファンは両者入場時にとんでもない事態を目にすることになる。


リングアナのケロちゃんの独断で蝶野の入場曲イントロに橋本の爆勝宣言のイントロを流したのだ。この突然の演出に国技館の大観衆は爆発した。(当の蝶野もこれは知らされておらず困惑していた。)試合前には完全に蝶野勝利の雰囲気が出来上がってしまったのだ。


こうなってくると藤田の勝利はありえない。時の勢いを覆えすのは至極困難である。プロレスにはしばしばこういうことが起きる!(蝶野も肌にしみていることであろう。96年のG1決勝戦がそうだった。最後のG1出場を掲げた長州力が大・長州コールをバックに全勝優勝を果たした。決勝戦の相手が蝶野だった。さらに話は少し先へ飛ぶが、2009年のG1クライマックスでは真壁刀義が圧倒的声援を背に優勝した。)


それにしても、何年経っても新日本の切り札は橋本真也だったということか。



続く