小松SFを読む鍵は、「人類史そのものが失敗だったのではないか」という観点にある。
歴史そのものが大きく動くのではないか、と思われるようなときがある。科学上の大規模な革命が起きるのではないか、と思われもする。北東アジアのある列島国家の国民がひとつの人類史上より高い自覚に到達したのではないか、と思われた瞬間がある。
しかし、それらの変革、革命、動揺はいずれも裏切られてきたし、裏切られざるを得ない。なぜか?人類史そのものに、根幹的ななにかの間違いがあったのではないか?
30-40万年前、人類の祖先の一部はアフリカを出て大きく二つに分かれた。中東を経てヨーロッパに到達した集団はネアンデルタール人に、中東から内陸アジアに到達した集団はデニソワ人になった。それに遅れて5-6万年前にアフリカを出た人類の祖先は、先行のネアンデルタール人やデニソワ人たちと混血した。
問おう。アフリカを出た人類の長い苦難の歴史になんの意味があったのか?パレオアジアティクスの形成、古モンゴロイドの誕生、火炎土器、桓霊大戦、邪馬台国、神武東征と続く歴史のなかに、いまのわたしたちの精神そのものとなっているものは数知れずあるが、将来に繋ぐべきといえるものがどれほどあるだろうか。釜蓋遺跡から弾正少弼までは新幹線でつながっている、だからといって歴史のすべてをぼくたちみんなが担わなくてはいけないのか。
強靭な精神は歴史を担えるのかもしれない。そういう精神がいるのかもしれない。だがぼくたちはラクダになって歴史を担うだけではなくて、新しいものを創造しなくてはならない。
ぼくもわかっている。歴史を自分じしんの精神の法則として、それではじめて新しいものが作れるのだ。しかしいまのところ、円柱にくくりつけられたぼくは時間線の鞭に張り裂けそうになっているのだ。