池袋の東京芸術劇場中ホールで上演されている
野田秀樹・作・演出の「ザ・キャラクター」(NOD・MAP15回公演)を見てきました。(2010年6月20日~8月8日)
(ネタバレありですでので初見の方はご注意ください)
傑作です。ただし、カタルシスはありません。
これはもう、受け入れられるかどうか、それだけです。
出演は、宮沢りえ(マドロミ)、古田新太(家元)、藤井隆(会計/ヘルメス)、美波(ダプネー)、池内博之(アルゴス)、チョウソンハ(アポローン)、田中哲司(新人)、銀粉蝶(オバちゃん)、野田秀樹(家元夫人/ヘーラー)、橋爪功(古神/クロノス)、くせ者揃いですね。
舞台は、天使のように微睡(まどろ)んでいたマドロミ(宮沢りえ)の独白から、始まります。
「サイレンが街中に鳴り響く…弟の俤(おもかげ)は夢で儚(はかな)く…『空から落ちそうだ』…」そして、弟の俤は、笑い声が涙となり、姉の袖をちぎり、落ちていく。
その落ちた先は、なんの変哲もない(実際には有り過ぎる)町の書道教室。もと大家(おおや)で今や大家(たいか)で『物忘れ』の古神(ふるがみ・橋爪功)が、大勢の生徒を教えている。「心臓に、魂はない。…人間を腑分けするように、文字を腑分けするがいい」と。
そこに、入会初日のオバちゃん(銀粉蝶)と新人(田中哲司)、会計・小金田文鎮(藤井隆)がからみ、そして「一枚の紙なのに、なぜ半紙」に悩み旅にでた家元(古田新太)と家元夫人(野田秀樹)が、世界の紙々とトランクに入れた『時間』(古時計)をお土産に帰ってくる。
やがて、ちぎれた「袖は神」、書道教室はギリ写経をする「ギリ書道」本部に、ホームレスのギブミーチェンジ(お金をちょうだい)がキルミーチェンジ(殺せ、そして変身)に変わっていく。
ギリシアの紙々が蜘蛛に、糸杉に、蝉に変身した神話のハナシ、殺されそうな思いが、何かに姿を変え、生き続けるカミガミのハナシにチェンジしていくように。
すべてが定かでないマドロミは、実在するかどうかも定かでないジャーナリスト志望の幻の弟・希望(のぞみ)を探し、ダプネー(美波)をアポローン(チョウソンハ)が追いかけ、そのアポローンを救おうとするアルゴス(池内博之)の神話の世界と現実世界から孤立し、半覚醒状態の書道教室に潜り込む。
完全に覚醒しているオバちゃんは、書道教室で消えた息子・希望(きぼう)を探しに現実世界のマスコミや世間を引き連れ、書道教室に関わろとする。いつまでも空き地で遊んでる子供たちが閉じ込められた冷蔵庫の扉を外から、開けようとする。
冒頭の舞台女優としての貫禄もでてきたりえさんの独白(誰に向かって話しているのか分からない傍白というらしい)から、今回は、思いっきり昔なつかし、野田戯曲の手法で、得意のギリシャ神話の世界。文字の話。言葉遊びと笑いに満ちた前半。
しかし、気を許しているとまったく思いもよらない現実の世界に連れて行かれる。最後に立ち上がっていくのは、いえ、降りてくるのは、目を背けていたというか、もう忘れかけていた現実の世界だ。
家元の古田さん、新人の役ですが田中さんは安定感がある。「あれ、これ、それ」の橋爪さん、銀蝶粉さんのオバちゃんは、上手すぎです。藤井さんは、動きはん~だけど、存在が役柄そのものだ。
野田さんをはじめベテラン陣は、あまり動かず、神話担当の若手組がハナシの間を動きまわる。
アポローンのチョウソンハさんは、ほとんど、野田秀樹だ。ヨカッタね、野田さん、もうあまり動かなくても済むよ。しかもイイオトコだよ。「真夏の夜の夢」の妖精パックの役から、この役になったらしいが、動きもセリフも明るくって、弾けていていい。
「贋作・罪と罰」のときの熱演が目立った美波さんは、すっかり成長して、キレイて魅力的だ。池内博之さんは、柄のある役者だし、チョウソンハさんとこのトリオで、ぜひ野田さんの若いときの戯曲がみたい。
30人以上からなるアンサンブルは、あるときは、ギリシア神話の変身譚、神々に変身させられた「救い」を求める異形のものたち。あるときは、魔の山に集まるごとく、どこか病んで「救い」を求めて書道教室に集まるものたちになる。
そして、最後には、朝のラッシュアワーのホームにたつ普通の人々に…。見ている私たちには、ある記憶が呼び覚まされいく。ここが怖く、演出も秀逸。
私もあのサリンが撒かれた日。御茶ノ水の病院に通うため、ちょうど8時前後の千代田線に乗る予定だった。ちょっと寝坊した。すでにホームには立ち入れず、訳の分からないまま、慌ててタクシーに乗る。
やかましくサイレンを鳴らしつづけ走りまわるパトカー、消防車、さまざまの緊急自動車の合間をぬって、異様な雰囲気の霞が関の街を走り抜けた。
あのときの光景が、まざまざと蘇った。病院のテレビに群がる人たち、その病院自体にも一部に慌てた動きがありでもその他は、いつもより静かでゆっくりと何も変わらないスローモーションのような時間が流れていた。
そして帰り道、なにか色あせた街のような知ってる光景なのに、まったく別の街のような霞が関をまた、車で通り抜けたのを覚えている。
私は、あの舞台の奥の彼岸のようなホームに立ってる人たちのなかに、いたかもしれないのだ。そして、サリンを吸い込み、マイケル・ジャクソンのような痺れる奇妙な踊りを踊ったかもしれない。
静かにフェードアウトしていく、マドロミの最後の祈りにもにた言葉をききながら、拍手をするタイミングも忘れ、私のなかの忘れきれないものは、何か考えてしまった。
ただ、モチロン、オウム真理教のハナシを題材にはしているが、形を借りているだけです。
家元の古田が、次々に弟子を巻き込んで、集団が狂気を孕んでいく様子は、連合赤軍のそれでもあり、被害者が共犯になり、加害者になり、犠牲者になっていく。こういう集団に、被害者も加害者もない。
「どうして、あの子が」「どうして、あんなことを」「どうして、あんなやつに」…その「どうして」のさま、集団心理を、作家の想像と創造で見事に描いていく。
このところ、「ロープ」にしろ「パイパー」にろ、荒唐無稽なお話のなかに、胃の腑が固くなり、苦いものが込み上げるようなリアルな場面を提示してきた野田さんです。なにしろ、やろうと思えば「暴力」を「暴力」のまま舞台で、取り出して見せられる方です。今回もオウムの事件を扱っていると聞いて、少しそれを心配してました。
でも、今回はそのリアルのスイッチは切ってくれたようです。そのかわりに、未熟な集団が未熟なままに、暴走するさまをきっちり、描ききってくれました。
欲をいえば、マドロミと弟の物語を剽窃した家元、犠牲者の身内になれなず、無念な幻の幼い弟とマドロミの世界が、もう少し立ち上がって欲しかったような気もする。ま、そうなるとかなりリリカルになっちゃうかな。弟とマドロミのハナシは、アクマで、マボロシなのかあ。
新潮 2010年 07月号 [雑誌]/著者不明
¥950
Amazon.co.jp
演出、舞台装置等については、いうことがない。野田さんの舞台は常に、舞台でしかできないことにあふれている。奥秀太郎さんとの映像とのコラボも回を重ね、ほとんど違和感なく舞台に溶け込み、これもお見事でした。
しかし、奇しくも北野武監督の「アウトレイジ」といい、野田さんといい、安易な感情移入を拒むような作品をつくりあげたことに、今という時代を考えされられます。それに、どちらも、宮沢りえちゃん好きだしなあ。
そしてオウムの事件当時、あんなにテレビにかじりつき、あらゆる新聞、雑誌をむさぼり読んでいたのに、今じゃ「あれ、麻原って、まだ、生きていたんだっけ」なんて、ほとんど彼らの近況はしらず、忘れていた私。
あれ、これ、それの『物忘れ』は、橋爪さんだけじゃありませんでした。
推敲も2回に分けるもままならず、長くて済みません。最後まで、読んでくれた方、ありがとうございます。
「おい、めたぼっち、マドロミ過ぎ、ちゃんとブログ書けよ」と
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野田秀樹・作・演出の「ザ・キャラクター」(NOD・MAP15回公演)を見てきました。(2010年6月20日~8月8日)
(ネタバレありですでので初見の方はご注意ください)
傑作です。ただし、カタルシスはありません。
これはもう、受け入れられるかどうか、それだけです。
出演は、宮沢りえ(マドロミ)、古田新太(家元)、藤井隆(会計/ヘルメス)、美波(ダプネー)、池内博之(アルゴス)、チョウソンハ(アポローン)、田中哲司(新人)、銀粉蝶(オバちゃん)、野田秀樹(家元夫人/ヘーラー)、橋爪功(古神/クロノス)、くせ者揃いですね。
舞台は、天使のように微睡(まどろ)んでいたマドロミ(宮沢りえ)の独白から、始まります。
「サイレンが街中に鳴り響く…弟の俤(おもかげ)は夢で儚(はかな)く…『空から落ちそうだ』…」そして、弟の俤は、笑い声が涙となり、姉の袖をちぎり、落ちていく。
その落ちた先は、なんの変哲もない(実際には有り過ぎる)町の書道教室。もと大家(おおや)で今や大家(たいか)で『物忘れ』の古神(ふるがみ・橋爪功)が、大勢の生徒を教えている。「心臓に、魂はない。…人間を腑分けするように、文字を腑分けするがいい」と。
そこに、入会初日のオバちゃん(銀粉蝶)と新人(田中哲司)、会計・小金田文鎮(藤井隆)がからみ、そして「一枚の紙なのに、なぜ半紙」に悩み旅にでた家元(古田新太)と家元夫人(野田秀樹)が、世界の紙々とトランクに入れた『時間』(古時計)をお土産に帰ってくる。
やがて、ちぎれた「袖は神」、書道教室はギリ写経をする「ギリ書道」本部に、ホームレスのギブミーチェンジ(お金をちょうだい)がキルミーチェンジ(殺せ、そして変身)に変わっていく。
ギリシアの紙々が蜘蛛に、糸杉に、蝉に変身した神話のハナシ、殺されそうな思いが、何かに姿を変え、生き続けるカミガミのハナシにチェンジしていくように。
すべてが定かでないマドロミは、実在するかどうかも定かでないジャーナリスト志望の幻の弟・希望(のぞみ)を探し、ダプネー(美波)をアポローン(チョウソンハ)が追いかけ、そのアポローンを救おうとするアルゴス(池内博之)の神話の世界と現実世界から孤立し、半覚醒状態の書道教室に潜り込む。
完全に覚醒しているオバちゃんは、書道教室で消えた息子・希望(きぼう)を探しに現実世界のマスコミや世間を引き連れ、書道教室に関わろとする。いつまでも空き地で遊んでる子供たちが閉じ込められた冷蔵庫の扉を外から、開けようとする。
冒頭の舞台女優としての貫禄もでてきたりえさんの独白(誰に向かって話しているのか分からない傍白というらしい)から、今回は、思いっきり昔なつかし、野田戯曲の手法で、得意のギリシャ神話の世界。文字の話。言葉遊びと笑いに満ちた前半。
しかし、気を許しているとまったく思いもよらない現実の世界に連れて行かれる。最後に立ち上がっていくのは、いえ、降りてくるのは、目を背けていたというか、もう忘れかけていた現実の世界だ。
家元の古田さん、新人の役ですが田中さんは安定感がある。「あれ、これ、それ」の橋爪さん、銀蝶粉さんのオバちゃんは、上手すぎです。藤井さんは、動きはん~だけど、存在が役柄そのものだ。
野田さんをはじめベテラン陣は、あまり動かず、神話担当の若手組がハナシの間を動きまわる。
アポローンのチョウソンハさんは、ほとんど、野田秀樹だ。ヨカッタね、野田さん、もうあまり動かなくても済むよ。しかもイイオトコだよ。「真夏の夜の夢」の妖精パックの役から、この役になったらしいが、動きもセリフも明るくって、弾けていていい。
「贋作・罪と罰」のときの熱演が目立った美波さんは、すっかり成長して、キレイて魅力的だ。池内博之さんは、柄のある役者だし、チョウソンハさんとこのトリオで、ぜひ野田さんの若いときの戯曲がみたい。
30人以上からなるアンサンブルは、あるときは、ギリシア神話の変身譚、神々に変身させられた「救い」を求める異形のものたち。あるときは、魔の山に集まるごとく、どこか病んで「救い」を求めて書道教室に集まるものたちになる。
そして、最後には、朝のラッシュアワーのホームにたつ普通の人々に…。見ている私たちには、ある記憶が呼び覚まされいく。ここが怖く、演出も秀逸。
私もあのサリンが撒かれた日。御茶ノ水の病院に通うため、ちょうど8時前後の千代田線に乗る予定だった。ちょっと寝坊した。すでにホームには立ち入れず、訳の分からないまま、慌ててタクシーに乗る。
やかましくサイレンを鳴らしつづけ走りまわるパトカー、消防車、さまざまの緊急自動車の合間をぬって、異様な雰囲気の霞が関の街を走り抜けた。
あのときの光景が、まざまざと蘇った。病院のテレビに群がる人たち、その病院自体にも一部に慌てた動きがありでもその他は、いつもより静かでゆっくりと何も変わらないスローモーションのような時間が流れていた。
そして帰り道、なにか色あせた街のような知ってる光景なのに、まったく別の街のような霞が関をまた、車で通り抜けたのを覚えている。
私は、あの舞台の奥の彼岸のようなホームに立ってる人たちのなかに、いたかもしれないのだ。そして、サリンを吸い込み、マイケル・ジャクソンのような痺れる奇妙な踊りを踊ったかもしれない。
静かにフェードアウトしていく、マドロミの最後の祈りにもにた言葉をききながら、拍手をするタイミングも忘れ、私のなかの忘れきれないものは、何か考えてしまった。
ただ、モチロン、オウム真理教のハナシを題材にはしているが、形を借りているだけです。
家元の古田が、次々に弟子を巻き込んで、集団が狂気を孕んでいく様子は、連合赤軍のそれでもあり、被害者が共犯になり、加害者になり、犠牲者になっていく。こういう集団に、被害者も加害者もない。
「どうして、あの子が」「どうして、あんなことを」「どうして、あんなやつに」…その「どうして」のさま、集団心理を、作家の想像と創造で見事に描いていく。
このところ、「ロープ」にしろ「パイパー」にろ、荒唐無稽なお話のなかに、胃の腑が固くなり、苦いものが込み上げるようなリアルな場面を提示してきた野田さんです。なにしろ、やろうと思えば「暴力」を「暴力」のまま舞台で、取り出して見せられる方です。今回もオウムの事件を扱っていると聞いて、少しそれを心配してました。
でも、今回はそのリアルのスイッチは切ってくれたようです。そのかわりに、未熟な集団が未熟なままに、暴走するさまをきっちり、描ききってくれました。
欲をいえば、マドロミと弟の物語を剽窃した家元、犠牲者の身内になれなず、無念な幻の幼い弟とマドロミの世界が、もう少し立ち上がって欲しかったような気もする。ま、そうなるとかなりリリカルになっちゃうかな。弟とマドロミのハナシは、アクマで、マボロシなのかあ。
新潮 2010年 07月号 [雑誌]/著者不明
¥950
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演出、舞台装置等については、いうことがない。野田さんの舞台は常に、舞台でしかできないことにあふれている。奥秀太郎さんとの映像とのコラボも回を重ね、ほとんど違和感なく舞台に溶け込み、これもお見事でした。
しかし、奇しくも北野武監督の「アウトレイジ」といい、野田さんといい、安易な感情移入を拒むような作品をつくりあげたことに、今という時代を考えされられます。それに、どちらも、宮沢りえちゃん好きだしなあ。
そしてオウムの事件当時、あんなにテレビにかじりつき、あらゆる新聞、雑誌をむさぼり読んでいたのに、今じゃ「あれ、麻原って、まだ、生きていたんだっけ」なんて、ほとんど彼らの近況はしらず、忘れていた私。
あれ、これ、それの『物忘れ』は、橋爪さんだけじゃありませんでした。
推敲も2回に分けるもままならず、長くて済みません。最後まで、読んでくれた方、ありがとうございます。
「おい、めたぼっち、マドロミ過ぎ、ちゃんとブログ書けよ」と
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