あらゆる因果の概念が私自身であり、私は在るべくして在るモノ…こうでも考えなければ、私の希望や願いが叶うことは有り得ないと思いますが、どうでしょうか。
たとえば、昨日の昼食の醤油味インスタントラーメンは、私の先週からの希望で、トンコツ味ではなかった。
これは誰の反論をも寄せ付けない事実です。
他の誰でもない私の、先週の願望がようやく通ったんです。
もしも願望が通らないコノ世ならば、トンコツ味になってた。どころじゃない、昼飯抜きだったかもしれない。
醤油味を食べたい私の願望が、この前の日曜日に、○○スーパーで五袋セット¥198の醤油味を見つけて買わせた。
ちなみに、三次元世界の産物は時間と場所に象徴されます。
時間と場所に願いが絡んで、醤油味が叶ったんですね。
お前はラーメン願望と世界平和願望をいっしょにする論法だろうと思われるかもしれませんが、その通り、ラーメン願望も世界平和願望も、共に心の中の想いである点で、間違いなく共通です。
富士山が噴火する時だって、私の願いか貴方の願いか日本国土の願いかなんて全然知りませんが、やっぱり誰かの因果律じゃないでしょうか。
願望は因果律の一形態に過ぎないとすれば、「汝の敵を愛せよ」が実現する時、少なくとも敵の心と繋がったか?については問題にならないと思います。
私の脳ミソに私が宿って私が私を意識するようになり、結果、私だけが世界唯一の主観なのか。
はたまた、あなたを含めて全ての物に主観が宿っているのか。
でもそういうことに関わらず因果律は存在しているのですから、私が支配する世界なら私の想い通りだろうし、主観同士の通い合いも有りだろうし。
もしかして想いの軽重が願望成就に関係するにしても、「汝の敵を愛せよ、されば…」の世界は有り得ると思います。