間もなく、3月11日。


風化させてはいけない記憶として、ブログに残すことにしました。


2011年3月11日 2:46分。

日本橋蛎殻町のビルの10階の事務所にいました。

最初は小刻みな揺れ、それから揺れがだんだん激しくなっていきました。

とうとう、「関東大震災」が来たんだ!

あまりの大きな揺れに、直下型の地震だと思ったんです。


机の下にもぐったものの、キャビネはガタガタ揺れ、本がバラバラ降っていました。

一部根止めをしていなかったロッカーは倒れてしまったものも。

上司の後ろはキャビネだったので、「早く、こっちこっち」と私の机の下に

2人でもぐりこみました。


最初の揺れが収まったので、ちらばった本をキャビネに入れ始めたところ

2度目の大きな揺れ。


揺れが収まるのを待ち、外へ避難したところ、近くの居酒屋の店員さんたちが

ポータブルテレビを道に出して見ていました。

その時は、まだ東北に津波は到達しておらず、でも魚を売りにしている

店員さんたちは、仕入先の三陸の方々を心配していました。

その頃、家族と連絡が取れ、全員無事ということが分かりホッと一息。


事務所に戻り、簡単なかたずけを済ませて、私ははなくろが心配だったので

帰宅を決定。

道は分かっていたので、近くに住む上司と一緒に徒歩帰宅を決めました。

道路は、ものすごい人の行列。

途中、コンビニでトイレを借り、3時間くらいかけて自宅に到着。

はなくろの無事を確認。ハウスの中でおとなしくしてくれていました。

その後、私の車で上司を自宅まで送ることにしたのですが、普段10分程度の

ところが、渋滞していて1時間くらいかかりました。

その頃は東北が津波で大変な事になっていると知らず、「日本の建物って

すごい、こんな地震でも大きな被害がない」なんてのんきな事を言っていました。


自宅に帰ってテレビを見て初めて知った津波の惨事。

翌日から水や食料調達のためスーパーに行って、がらんとした陳列棚を

見た時のショック。

日中仕事をしているので、仕事を終えてスーパーに行っても

何も買うものがない時の、なんともやりきれない気持ち。

断水が一週間続き、幸いマンション内の給水栓で水は確保できましたが、

不自由な生活。

夜の計画停電には2度遭いましたが、真っ暗な駅前、道路も真っ暗、

家に帰っても、電気も水も使えず、ひたすら計画停電の終了を

じっと待つしかない時間の長さ。

福島原発の事故。

ゴールデンウイークくらいまで、心理的に緊張した状況が続いていたように

思います。


私の住む浦安は、地元では新町といわれる埋立地区がひどい液状化の被害に

遭いました。

以前、新町のアパートに住んでいたことがあり、一番被害がひどく、テレビにも

何度も登場した地域だったので、どうなっているか気がかりでしたが、

足を踏み入れる勇気がわかず、初めて見にいったのは10月に入ってからでした。

私の住んでいたアパートに人は住んでいましたが、入口の階段が1mくらい

浮いていました。


地震の揺れそのものより、地震の後の生活の方が緊張し、やりきれない

気持ちでした。


生活が元に戻るに連れ、記憶が風化してしまいますが、

今でも仮設住宅や避難先で不自由な生活を送ったり、

仕事を失っている方々が大勢いることを忘れないようにしたいと思います。

その方々が、早く元通りの「普通」の生活に戻れますように、

そして明日という日への希望を抱くことができるようお祈りしたいと

思います。