リアルの友人一人だけが、このブログを書き始めたことを知っています。

元々はその友人と定期的に会ってお互いにどうでもいい話をしてストレス発散をしていたのですが、このコロナのせいで会うことを控えようとなったことがきっかけで書き始めました。

私は1馬力で自分を養っている身、彼女も1馬力で行政の力を借りながら子ども3人を養っている身です。

お互いに自分がコケると路頭に迷うとの自覚があるので、こればかりは仕方がないことですねえー?

 

今日その彼女からLINEがきました。

※大阪人のやりとりですので大阪弁です。ごめんなさいあせる

 

友「見たで~。あんたマジでどうでもいいことばっかり書いてるやんえー

 

私「そやろ?いつもガストでしゃべってるようなこと書いてんねんニヤリ

 

友「ええけど知らん人が見ても全然おもんないし役に立てへんやんえー

 

私「そりゃしゃあないなー。知らん人しか見いひんやろうし笑い泣き

 

友「せっかくやねんから、知らん人が見てもちょっとは役に立つようなことも書いたら~?あんたの黒歴史って結構人の役に立つと思うで??」

 

というやりとりがありました。

こんな過疎ブログでも、ごくまれに読んでくださる方がいらっしゃいます。

読んでくださった方、ありがとうございますお願い

友人とのやりとりでなるほど、と思う部分もありましたので、果たして見ず知らずの人の役に立つのかどうかはわかりませんが、不定期で過去のどん底時代から今までのことを書いてみようと思います。

もし今苦しい人がいれば、ひょっとするとどん底を脱出するヒントになるかもしれません。

 

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私のどん底時代は幼少期から始まっていました。

中流家庭だったとは思いますが、いわゆる毒母と毒姉、毒親戚がいました。

父親もいましたが、絵にかいたような昭和初期のオヤジでした。

飲む以外のことは全てやる。(←お酒飲めないだけ)

家のことは嫁の仕事。

子どもには一切関心がなく、一緒に遊んでもらったことも旅行へ連れて行ってもらったこともありません。

話しかけられたことも記憶にはありません。

毒母にとっては腹が立って仕方のないオヤジだったようです。

 

そんな毒母はよく子どもに当たり散らしていました。

毒姉はそんな毒母の機嫌を取るのが抜群にうまく、少しでも私のほうが目立ちかけると熱湯をぶっかけてくるような人でした。

今でも足にその大やけどの跡が残っていますが、毒姉は毒母に「こいつが自分で鍋のお湯をひっくり返したで。どんくっさー笑」という毒の吐きようです。

毒母はいつも機嫌を取ってくれる毒姉の言うことを信用します。

おかげで幼少の頃から"何をさせてもどんくさいアホ"というポジションでした。

毒母方の親戚とはよく交流があったのですが、さすが毒母方の親戚だけあってこちらも毒親戚です。

酒臭くどす黒い顔を近づけてきて、「どうや、ちょっとはチチはデカなったか?」と幼稚園児の私の胸を撫でまわす叔父に、ビール瓶を片手にゲラゲラと横で笑ってヤジを飛ばす叔母。

本当に家が地獄でした。

 

おかげで内向的でとことん目立つことは控える幼少期でした。

地味な小中学生時代を送り地味な公立高校へと進学をしたものの、もう早く家を出たくて仕方がありません。

高校に入ってからは学校の近くのスーパーでアルバイトをしていましたが、フルタイムで働けば家を出れるかも!?と思って家出をしました。

その頃に付き合っていた2つ年上の彼が中学を出てすぐに土建業の親戚の元で働いていて、一人暮らしをしていたところに転がり込みました。

そのまま学校へも行かずに半年ほど経った頃、スーパーでのアルバイト中に高校の担任教師に遭遇してしまいました。

高校2年生の冬でした。

そのまま毒母に連絡をされて教師と私と毒母で学校で話し合うことになりましたが、私はもう二度と家には戻りたくありません。

毒母は教師の前でバンバンと私の顔をビンタします。

 

あんたなんか死んでしまえ、なんで生まれてきたんや、恥さらし、今すぐ死ね、舌かみ切って死ね、ねーちゃん見習え

 

毒母は怒鳴り散らしながら教師が止めるまでビンタを続けます。

私は一言、もう家には戻らないし学校も辞めると言ってそのまま学校を出てきました。

スーパーは私が家出をしていたことを知らなかったので、知った以上は雇えないとクビになりました。

彼は働かなくてもいいと言ってくれましたが、とにかく自立をしたかった私は彼の行けつけのスナックで年齢をごまかして働き始めました。

これで高校中退水商売という典型的な"レールから外れた人生"が始まりました。

父親の体質を引き継いだのかお酒はめちゃくちゃ弱かったのですが、とにかく働く場所が必要だった私は毎晩記憶をなくす寸前まで飲んで、帰る前にトイレで吐くという生活を続けていました。

 

ですが、そんな生活も長続きはしませんでした。

20歳で病気になってしまったのです。

 

②へ続く