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obaabaの井戸端

くだらないおしゃべり色々

ワタシがアヤちゃんのいたところの近くにいたのはもう半世紀近く前のことだろう(あんまり考えたくない話だけど、、、)



初めての海外生活は見るもの聞くもの全てが「!!!!!」で



半世紀過ぎても色んなことをはっきりと覚えている



いいこともあったし、悪いこともあった




全ては、時間の流れで揉まれて柔らかく、肌触りよい思い出になってる気がする




だけど、



私の中の「思い出棚」のどこに片付けていいか分からないまま



ずっと持ち歩いていることがある




寮の友達が、Thanks giving (感謝祭っていうのかな?「一年の収穫」を感謝するんだと思うけど、家に寄っては日本のお盆みたいに親族が集まって飲んだり食べたりするみたいだった)に家に帰るから一緒に来ないかと誘ってくれた



ワタシがいたところは、田舎の大学町だったけど、若者が多いからそれなりに賑やかだった


彼女が連れて行ってくれたおばあちゃんの家は、本当に「アメリカの田舎の家」



そこで、沢山の親戚に紹介された
アジア人は町に数えるくらいしかいなかった


物珍しさもあってか、みんな本当に良くしてくれて楽しい時間を過ごした
感激したのは、おばあちゃんが、十数人いる孫のために1人一個ずつ作ったと言う松ぼっくりのオーナメントを、ワタシの分まで用意してくれていたこと


寮に帰る私達を送る車の中で、友達のママが可笑しそうに話し始めた

「ひいおばあちゃんたら、あんた達を車で送るって言い出してきかないから笑っちゃったわ。」


90歳を超えると言う彼女のひいおばあちゃんは、big fat mamaそのままの彼女のおばあちゃんと
「ホントに母子?」って言いたくなるくらいほっそりした人だった


Driving miss Daisyに出て来た女優さんみたいだな、って挨拶するとき、枯れ枝のような小さな手を握りながらワタシは思っていた。


でも、それだけで特に話をしたわけじゃない


「アメリカの女の子は、包み紙をバリバリ破ってその辺に投げておくけど、あの子は松ぼっくりの包みを破れないように開いて、プレゼントを取り出した後はちゃんと畳んでいた。日本人はみんな「世界で一番 mean な (意地悪な、とかって辞書に書いてあるんですかね、でも、なんてゆうか、意地悪というか卑近というか、意地汚い、というか、、、そういう響きの言葉です)種族だと思っていたけど、あの日本人の女の子はイマドキのアメリカの chick (その当時のスラングでは、日本語で言うところのギャルをもっとワイルドにした感じですかね)なんかよりはるかにsweetだ、って言ってねえ」

ワタシの友達を冷やかすように、ママはくすくす笑った


お行儀が悪いことをつつかれてはやぶ蛇だ、と思ったのかワタシの友達があわてて説明し始めた

「ひいおばあちゃんは、戦争で夫と最愛の息子を失ってるんだ。だから、今日、あんたを連れて行くこと、ちょっと迷ったんだけど、、、、ひいおばあちゃんが来るかどうか分かんなかったし、、、」



アメリカで大学の寮に入っていたワタシにはルームメイトがいた



気のいいティーンエージャーで、彼女と彼女の寮友達との愉快な生活は
姉妹のいないワタシには、本当に楽しいものだった



ある日、私達の部屋で数人集まってテスト勉強をしていたときに


ルームメイトと友達が授業で一緒になる、別の階に住んでいる子の悪口を言っていた


BGMに彼女達のおしゃべりを聞きながら、ワタシも自分のテストの勉強をしていた


突然耳に入って来たことば


「She is yellow (あの子は黄色人種だからねえ)」


ワタシは、話半分に聞いていたのもあって、なにげに合の手を入れた


「ワタシもよ(^∇^)」


ワタシのルームメイトは、驚きもせず、真顔で断言した


「No, you are not.」


思わず反応できなかった


ルームメイトも、友達も、そのまままた会話に戻って行った




その町は田舎町で、コミュニティ全体にアジア人は1割くらいだったと思う
でも、大学はあちこちから老若男女が集まるところだから、結構、アジア人がいた


日本人は少なくて、あちこちのアジア人学生主催のパーティに誘ってもらった
中国、台湾、インドネシア、韓国、、、様々な国から来ている留学生や、親とともにアメリカに渡ってきたり、アメリカに渡った親の元で生まれている子達

アジアなまりの米語や、完全な中西部なまりの米語の中にぽこっぽこっとそれぞれが親に教えられた片言の言葉が混じったり、それでも和気あいあいとみんな楽しんでいるようだった


あるとき、韓国系の集まりに誘われた

ワタシを誘ってくれた韓国系アメリカ人の青年が

「日本から来た子だよ。TOSHIBA社長の令嬢だ(←もちろん、ギャグです。バブル全盛の頃ですから日本から来てる子はおしなべてお金持ちの子が多かったのも事実ですが、、、)」

とワタシを紹介してくれたとき



笑いながら、ワタシに手を差し伸べて口々に自己紹介してくれた中に1人、
「日本のどこから来たの?」と聞いて来た男の子がいた


「広島から、来たの。本州の下の方よ」


「広島なら知ってるよ。僕のおじいちゃんは大阪にいたんだ」


そうなの?っと喜んで言葉を継ぎそうになった私に


彼は無表情に言った

「大阪で、日本人に殺されたんだよ」


「そうなの、、、、」そこまで言ったことは覚えているけど、、、、




その後のことは覚えていない





折り鶴の部屋で、私は泣いた



沢山の、沢山の、想い


世界中で「生きている」沢山の人達の想い



それを受け止めるはずの、死んでしまった人達の想い


京都戦から1週間


写真なんか撮って帰ったりしたものの、私はこのことを何かの形にするつもりはなかった




私はもう、自分の人生の(おそらく)半分以上を生きてしまった




ここまで生きてくる間に、山や谷は一杯あったけど、そういうものもやがて年を取るに連れてなだらかになってゆくだろう




いわば、「余生」に片足を突っ込んでいる状態で生きているようなもんだ



この街も、この国も、「これから生きてゆく」若い人達のものだと思う



色々なものが、たとえ私にとってどんなに「大切なもの」だとしても



それが「これからの未来を生きる」若い人達の「重い宿題」になってはいけないと思っていたから。





ところが



磐田戦の日の午前中



私はもう一度、旧市民球場に行く羽目になった



子供達が保育園の時から兄弟のように育って来ている友達が、この夏から海外に出る。

戻って来る子が自分たちの体験談を話し、これから出発する後輩を激励する、というような集まりに、
子供達とともに行く予定だった


午前中クラブがあった子供達には、開始時間まで余裕がないのでお弁当を持たせて、食べて来るようにいいつけていたのだが、、、、
相変わらず、ぐだぐだな子供達は待ち合わせの場所に10分も遅刻して来たあげく、昼ご飯を食べていなかった、、、、




仕方がないので、球場で弁当を食べさせることにしたのだ



球場には、沢山、人がいた



野球の大会だったんだ

obaabaの井戸端-野球の大会だったんだね


見るからに「オヤジ」な指導者の人達がうろうろしてるし、


obaabaの井戸端-市民球場


お母さん達も揃いのTシャツを着て、甲斐甲斐しくお世話をしていた



「おお~」と思いながら通路を歩いていると

おそらく、全く無関係な、通りがかりの人達、とおぼしきおじいちゃま方が3人


「あの3番はええね」


「おお、あれじゃろ、わしもそう思いよった。腰の回転が、、、以下ウンチク」


少年団が聞いていたら、「うざ」とか思うんだろうか、、、





ロープが張ってあるから、外野には入れないけど、ちゃんとウグイス嬢がラインナップをアナウンスする。




こういうの見ると、胸が熱くなるのは、まだまだ私ももう片足が現世に残っているからなのかな

obaabaの井戸端-野球少年





そんなことを考えながら、海を渡る子ども達を送る会の会場にギリギリに滑り込む




これから行く子ども達が、自分たちが行く場所や、そこで何をするか、などをひとしきり話した後に



今年帰って来た子が、激励の意を込めて一年間の体験談を話すくだりで



私は、不思議な偶然に驚いてしまった



自分のことを「アヤ(仮名)はねえ」と話始めた彼女のことを、最初はちょっと

イタいなあ、と思って聞いていた



彼女は、私が初めて滞在した、その同じ土地に一年滞在していたらしい



そこでの暮らし



言葉が通じなかった自分



沢山の体験、いいことばかりじゃなかったそれぞれのことを話した最後の最後に



彼女は、荷物の中から一房の千羽鶴を取り出してこういった


「帰る前に、学校の皆と千羽鶴を折りたいんだ、って先生に言ったの。

アヤは、広島の子供で、

だから、サダ子さんの話とかね、皆に知ってほしいと思ったし、

いけんかったかもしれんけど、でも、皆に折ってもらって日本に持って帰りたい、広島にもって帰って折り鶴の像に持って行きたいって先生に言ったらね、先生も凄く賛成してくれて、それってもしかしたら顰蹙じゃったかもしれんのじゃけど。そんとき、中国を勉強しよったんじゃけど、も、急遽、日本の勉強になってから。ほんで、クラスの子とかも、なんでこんなんおらんといけんのん、って最初は言いよった子も、よおけ、おったんじゃけど。そんでも段々皆が折ってくれて、最後は千羽以上になって。ほんで、先生が、アヤが日本に帰っても、毎年皆で折って送ってくれるってゆってくれたん。」


そこまで、一気に話して、彼女は一度、話をやめた


手にした千羽鶴に目をやって



「たったそんだけのことなんじゃけど、
でも、上手く言えんけど、

これはね、アヤの一年間の一番の宝物。

そんで、今日は、これから、帰りにこれをね、平和公園に持って行ってから、帰ろうって思うんじゃ」

obaabaの井戸端-アヤちゃんの鶴


最後はちょっと涙声でかすれながら


アヤちゃん(仮名)はそれでも笑っていた



私も、自分の初めての海外生活を思い出していた



アヤちゃんは、多分、あの時の私よりも数歳年下だろう




私が初めて海を渡ったとき、彼女はこの世に生まれてもいなかったはず





まるで、芸能人の「なんとかちゃん」みたいな顔をして



アラフォーのワタシから見たら「イタい~」というような喋り方をするアヤちゃん



そのアヤちゃんの手から下げられた、アメリカの子ども達が折ったという、千羽以上の鶴






obaabaの井戸端-千羽以上ある
京都戦、ワタシは参戦予定だったけど子供の学校行事でまたしてもドタキャンになった



それどころか、学校行事の進み具合では家に戻っていたんじゃテレビでライブ観戦も無理





そこで、出先から少しでも時間短縮しようと、市内中心部で行われている観戦会に潜り込んだ





ま、ご存知のように結果はアレだったわけなんですが




私としてはそこまで落ち込む試合でも何でもなかった気がする。






帰りにふと




新聞やネットなどでも取りざたされている旧市民球場の『折り鶴展示室』を見に行ってみようと思った。


市民球場で
最後に試合を観たのはオープン戦の阪神戦


試合では一度もネット裏に座ることはなかった



今は「サウンドマリーナ」の大きな宣伝が掲げてある正面玄関



やっぱりどことなく「こそこそ」と入ってしまう




入ってすぐの階段を上る前から、千羽鶴が下げてある
階段を上がったら、もう、どの部屋にもどの部屋にも、、、

obaabaの井戸端-折り鶴


日本中から

obaabaの井戸端-折り鶴


世界のあちこちから

obaabaの井戸端-折り鶴


人の気配がして
覗いてみると、子供達がいた
何かのビデオが流れている

obaabaの井戸端-子ども達



テーブルもあるから、お絵描きや、もしかしたら鶴を折れるようになっているのかもしれない
(折り鶴は祈念堂じゃなくて、こんな風に子供達が実際に折れるようなスペースがほしいってプレゼンテーションでおっしゃってたのは、しゅうぶんさんだっただろうか?)



obaabaの井戸端-メッセージ


壁には、折り鶴で作られたパネル絵や、メッセージがかけてあった、、、

obaabaの井戸端-市民球場



外に出ると、大人の人達がちゃんとしたユニフォームを着て野球をしていた
どんな団体だったのかはわからない

obaabaの井戸端-市民球場


さっきの部屋にいた子達だろうか、ベンチの前で素振りをしているお父さんらしき選手に近づいたり、離れたりしている子がいる

obaabaの井戸端-手のひらの中の鶴


のどかな風景




ネット裏のシートに腰掛けて、しばらくの間、ぼんやり思っていた


なぜ、戦争も爆弾のことも実際には知らない世代に、鶴を折ることを教えるのか



その日は、京都も暑かっただろうけど、広島もなかなかの暑さだった
こんな暑さでも、平和公園には沢山の人がいる
外国人の二人連れが、植え込みのところに置いてある投下直後の『猿楽町』近辺の空撮図を観ている

ご覧になった人はいらっしゃるだろうか

obaabaの井戸端-投下後の写真


砂漠の中に河が流れているだけの写真に見える

「猿楽町」は今は存在しない
町名変更になってしまった、失われた街なのだ



obaabaの井戸端-慰霊碑の前のペットボトル


原爆ドーム前にある「慰霊」と書かれた石碑の前には、ペットボトルに入った水が沢山置いてある



obaabaの井戸端-河は流れる


私の元の同僚は、安佐南区に住んでいる。
安佐南区には有名な「八木用水」があったり、せせらぎ公園があったりする。

夏休みのPTCに、彼女は子供達と太田川に沿って原爆ドームまでを歩いたと言っていた



被爆した人達が焼け野原になって何の目印もない街の中を
河を頼りに家を目指して歩いたその道を


私には、戦後、駐留軍にいた連合軍の兵士と結婚して海を渡った親戚がいる
彼女は今70過ぎだが、4、5年に一度帰国する。この間帰って来た時は、もう何度戻れるか分からないからと言って、いわゆるアラフォーな娘と息子を連れて帰って来た。彼女は、滞在中、寝泊まりしている妹の家から、もう父母の亡い実家へ歩くと言った。
「街の様子も変わったし、、、」と引き止める兄弟(もちろん、既にシルバーな団体、、、)を言いくるめ、
子供達(て言っても、もういいおじさん、おばさんになってるんだけど、、、)をつれて家をでて、
車で先回りして「今来るか、もう来るか」と心配する兄弟達の前に、ちゃんと現れた


そのとき、彼女が言ったことは、もう数年経った今も鮮やかに耳に蘇る

「街は変わっても、山も河もかわらん。山を見ながら土手を歩いて来た。もう、様子は変わったけど、うちが行きよった小学校もちゃんとあったけん」

彼女の広島弁は、彼女が日本をでた時のままなので、本当に昔ながらの響きである


口伝えの話が形を変えてゆく



過ぎてしまったことは、日々色あせる



戦争は、今でも世界のあちこちで繰り広げられている



戦時下の子ども達に鶴を折らせることはないだろう



彼らは既に知っている



戦争がどんなものかを



おそらく、彼らは生きている限り彼らが経験した「戦争」を忘れることはないだろう



生きている限り、失った何かを失ったまま、



失ったままで生きるのだ




人々は恐れているのではないだろうか



戦争を知らない子ども達が、


何も失っていない子供達が



この地球を壊してしまうこと




この子供達が、その意味を知らずに、自分の帰るべき「家」を焼き捨ててしまうこと