例えば
毎日のようにクルマを運転している人が
数ヶ月クルマの運転から離れていたとして、
クルマの運転の仕方を忘れるものだろうか。

数ヶ月…いや数年の間
誰とも口を聞かなかったとしたら言葉を忘れるものだろうか。

しばらくの間
身体の自由が利かなかったとしたら、
もう歩き方や手の動かし方って忘れてしまうのだろうか。

自身が卒業した学校の名前や場所や校風や先生のことって
大人になるとアッサリと全てを忘れるものだろうか。

誰かを愛していたとして
その人のことは数年経つと当時の気持ちを忘れてしまい、
更に顔も何もかも忘れてしまうものだろうか。

もし完全に忘れてしまったのならば、
その人への気持ちはその程度のものだったのだろう。

誰かを本気で好きになった気持ちは
狂おしいほどの苦しみの中、
自身の心に深く染み入るものであるから、
何年経とうと忘れはしない。

時間の経過と共に角が取れ丸くなり、
思い出が美化されていったとしても、
愛していた記憶という芯だけは絶対に消えない。

言葉や身についた技術や友と共に学んだ場のこと同様に
自身の一部になるのである。

数年前にテレビや映画で観たものに涙して感動したものを
今でも覚えているだろうか。

例えるなら
毎年夏に放送されるチャリティー番組を例に出すと、
あの番組の演出で得た感動の数々を今も覚えているだろうか。

覚えているのなら
その感動は本物で自身の一部になっているものであり、
今後自身に役立っていくものであるが、
あれ?思い出せない…どんなんだったっけ?
なものはその時だけの感動でしかなく、
心に染み渡り芯を形成するほどのものではなかったのだろう。

本物の感動とは
他人が意図的に創り出したものでは得られないと僕は考える。

感動させてやろうとする意図を持って創られたものには、
見ていて寒気すら覚えてしまう。

そういう意図を感じるものには共通点があり、
病や身体に不自由な部分を抱えた少女の恋物語や
病と闘った末に命尽きる子供の話、
飼い主に尽くすペットの話など、
見た後に『感動しました』なんて軽く口にできるものほど、
数日もすれば大方忘れていることだろう。

真の感動を得た人は、
自身でもコントロールできないくらいに心が大きく揺さぶられ、
覚醒に近い感覚を覚えるものである。

だから何年経とうと忘れない。

二十四時間テレビを観て感動したと涙できる人は、
一度特別支援学校に見学に来られるといい。

そこの子供達は皆が以前はできなかったことが出来るようにと頑張っている。

しかし
出来るようになるまでは数時間のドラマやドキュメントなどでは
語れない事がたくさんありすぎる。

中には頑張ってもできなかった子供もたくさんいる。

子供の様子を通して見ていれば、
心が打ち震え感動したとしても安い涙は流れまい。
(そこの一部教員の実態を知れば感動より呆れが来るだろうが…)

真の感動により形成された芯の数だけ、
人の心は豊かにも強くにもなれるものであろう。

涙の数だけ強くなれると言うのなら、
今の僕はもう無敵に近いことだろう。
しかし…無敵にはなっていない。

流す涙には心の震えと
自身が抑えようのないほどの『狂』を発することが出来て初めて、
その涙は一生ものになる。

それは
感動ストーリーなどと誰かに与えられたものでは得難く、
自身がストーリーの主人公になるしかないのだ。