我復活せり

昨日は聖枝祭という枝の主日であった。

聖堂はたくさんのロシア人で溢れかえり、
男女共に背が異様に高いロシア人の塊の中で僕は立っていた。

よくもまぁ
昔の日本人はこんなのと戦争したもんだ…と感心する。

そのロシア人全員が痛悔(懺悔)をするものだから、
列が途切れることがなく、
聖体礼儀の始まりの鐘の音はいつもよりかなり遅くに鳴った。

朝食を抜いているのでフラフラとなりながらもなんとか最後まで耐え抜いた。

いよいよ今週は受難週だ。
十字架にかかるハリストス(キリスト)の苦しみを記憶する週である。

十字架に釘打たれたハリストスは死ぬ。

エホバの証人はこの死を記念して式を行うそうだけど、
ぬるま湯でカップラーメンを作ろうとするくらいにヌルい感じがしてしまう。

あるいは湿気てしまったポテトチップスくらいに軟く感じる。

最後の晩餐と呼ばれる晩餐は
簡素な式などではなく、
機密の晩餐というくらいに重要なものである。

十字架に釘打たれて死んで終わりならただの人間と変わらないではないか。

だからエホバはキリスト教だと認められないんですよ。
一度キリスト教の復活祭に参加なさると良いでしょう。
未信徒でも参加できますから。

死んでそして三日後に復活する。
その復活こそがハリストスが神であることの証であり人間が救われたとする
最大の喜びなのである。

霊的に復活したハリストスの喜びを正教会ではこう歌う。
『ハリストス死より復活し 死をもって死を滅ぼし 墓にあるものに命を賜えり』
このフレーズを何度も歌うのである。

僕なりに語ると、
この復活とは
人の普段の生活においてでも起き得ることなのである。

仕事が辛い
恋愛が辛い
婚活が辛い
勉強が辛い
人間関係が辛いなど、
日常において自身が受難に置かれていると感じることなんて多々あります。

とことん落ちた心のままいたのでは、
ただの生ける屍でしか存在できなくなる。

だけどね
光を見つけられたなら復活が叶うんです。
その光は誰にでも注がれている光であり、
無いのではなく見つけられていないだけなのです。

どのような光なのかは、
それは願う復活により変わります。

何をきっかけに見つけられるのかも
その人により違いますが、
救いを求めていなければ注がれている光を見つけることはできません。

落ち込んでいるなら復活しましょう。
そして喜びましょう。

あぁ復活祭が楽しみ…なわけないでしょう。
執事としていろいろやらなきゃいけないことがあって大変だ。
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画像は教会の庭に植えてある花ですが、
何の花か分かりますかな?

わからないフリをしながら知っているが、
僕はこの花の名を聞くと何故だかドキドキしてしまうんです。