地下鉄サリン事件から20年となるからか、
やたらとオウム真理教を特集した報道番組を目にする。
あの当時、
オウム真理教のボスが逮捕される前、
確かマスコミは面白おかしくオウム真理教を取り上げ、
視聴率を稼ごうとしていたように記憶している。
オウム真理教の危険性を訴えていた人が多数いたにも関わらず、
連日のようにオウムの奇行をカメラに収めようと追っ掛けていた。
そしてマスコミは視聴率稼ぎに再びオウムを使う。
昔
オウムを追いかけていたから映像資料は山のようにあるようで、
オウム特集の番組では様々な映像が流れていた。
見て思った。
人の罪ってなんだろうか?
キリスト教的に言うと神に背を向けた行為のことである。
即ちモイセイ五書にある律法を破る行為となる。
なぜ人は人を殺してはいけないのか?
と尋ねる人がたまにいるけれど、
殺人はいけないことだということは
法律はもとよりモイセイ五書にも書いてある。
だから殺人は罪になる。
人として最初に罪を犯したとされるアダムとエワはサタナにそそのかされ、
神の命に反してしまった。
これにより人は楽園を追放され死ぬものとなった。
死ぬものとなった人は完全な存在ではなくなった。
不完全な存在である人間は
不完全である部分を埋めようとする為に神に救いを求めるようになった…と考える。
その神とする存在は、
人により違う。
人によっては神
人によっては仏、
人によっては偶像、
人によってはそこの教祖、
人によっては…麻原彰晃…
宗教なんて信じないと言う人だって、
何かの望みの叶いを願う時には何かに向かって祈るはずだ。
『どうか…が…しますように』と。
不完全な自身に気付き、
それを埋めたいとする時に、
たまたま近くにあった宗教、
あるいは救ってあげると声を掛けてきた者に惹きつけられてしまう。
だから
人を宗教に誘いたい時には不安を抱えた人を狙うのが一番だ。
不安を抱えた人にとって宗教は精神安定剤のような役割を果たす。
その人が
たとえどんな存在に心を寄せようと、
その人にとっては間違いではないだろう。
ただ
どのような存在に心を寄せたとしても、
自身の目だけは失ってはいけないのだ。
創価学会のように
他人を信者に仕立て上げたり、
何処かのように効力のない壺を売り歩いたりと、
他人に迷惑をかけてしまっては、
そこもそこに心を寄せた自身も人として罪を犯した存在になってしまう。
オウムに入っていた人の中には
途中でおかしいと感じて脱出した人もいるようだ。
そういう人は自身の目を失わず持っていたか、
取り戻したのだろう。
今でもオウム信者は増え続けているらしい。
教団の集会所にはあちこちに麻原彰晃の写真が飾ってあるらしい。
麻原彰晃がその人にとって本当の救いになると言うのなら、
他人が責められるものではないだろう。
ただ
迷惑な行為だけは辞めて欲しいのと、
被害者への賠償はきちんとやらないといけない。
と
人の罪についてを考えていたら、
違う方向に行ってしまった。
画像は福祉施設の人達が学校に売りにきたパンです。
これが90円で安くてモチモチ美味い。
もっとパンが広く売れたら、
生徒達の進路先が見つかりやすくなるだろうに…