から一歩出たら全くしゃべれない状態が学生ではなくなってからも6間続いたので死んでしまいたいくらい辛い思いをして生きた心地もしませんでした。この時が今まで生きてきた中で一番辛ときでした。仕事は自営の手伝いでした。仕事では父と大喧嘩をすることが多く頭がボーっとするほど殴られることもしょっちゅうでした。誰かが私のちかくで話していると知らない人の話していることでも私の悪口が幻聴のように聞こえることもありました。それで古本屋の手伝いは苦痛でしたが、外に出て働けないので仕方なくやっていました。ヘルパーの資格を取ったり、手話を学んだり、自動車の運転免許を取ったり手話を学んだ入りした以外は家族以外との関わりもありませんでした。公民館で若い人だけの料理教室があっていて参加したいと思っていたのですが声が全く出なくて参加申し込みをすることができず参加できませんでした。一緒に手話を学んでいた人の中にしゃべれなくても誰でも誘ってくれる人がいてその人がいたおかげでみんなの中にかろうじて入っていく状態でした。看護学校の受験やヘルパーの資格を取るために勉強をされていました。数年の付き合いでした。のちに私の通っていた精神科で看護助手の仕事をした人でした。まだ発達障害も分かる前のことだったので精神科に通っていることを言ったところ大変驚かれていました。

 自動車の免許は担当になった営業の方や先生がしゃべれないこともあった私に配慮をしてくださってかろうじて取得できたような状態でした。学科は一発で合格するくらいできたのですが実技は全くだめで既定の2倍練習をしてやっとやっと合格しました。

 高校生の時に行った児童精神科で先生が両親としか話をしない、私を一目見るなり精神分裂病と大声で言うことしかしない人でとても怖い思いをしていたのでなかなか精神科に行くことはできませんでした。専門学校でのことがあってから信頼関係を築ける人に出会えたら話せるようになるんだから、いつか担任の先生のように信頼できる人に人に出会わないかなと思いながら6年を過ごしましたが、自分から見つけもしないのに出会うなんてそんなに甘いことはありませんでした。どこへ見つけに行ったら良いかと考えたとき精神科以外に考え付くものはありません。高校生の時の怖い思いからなかなか精神科へ行くことはできませんでした。極度の不安症害の遺伝なので母は精神科に通っていました。母は先生から精神障害者保健福祉センターのことを聞いてきました。病院探しをするのと同時に病院よりハードルは低いだろうと行ってみることにしました。カウンセリングを受けたのですが、緘黙や発達に合わせたものではなく辛かったことや困っていることをとことん聞かれるのでとても辛くてすぐにやめてしまいました。デイケアに参加しながら病院探しやジョブカフェに通うことをしました。これまでもジョブカフェに行ったのですが、カウンセラーがいなかったので続きませんでした。やっとカウンセラーがいるようになった頃でした。親なしでも診てくれる先生ではないと先生と関係は築けないから話せるようになることはないと思っていたので、話せないながらにも問い合わせの電話も精神保健福祉センターに行くことも病院へ行くことも全て自分ひとりでしました。親を連れてきなさいとしつこく言うところへは二度と行かない、親の連絡先を教るように言われても決して教えないということを徹底しました。なので、今の主治医の患者になって1年くらい両親は精神科に通院していることを知りませんでした。高校生のころ精神科でものすごく怖い思いをしていたので行ってすぐに受診をすることができずに1か月たってからの受診でした。探し始めて8か月たったころようやく話せるようにしてくれた信頼する主治医と出会うことができました。自営の手伝いを辞めたということで就職活動をしていて極度の不安でなかなか面接に行くことができないそんなときでした。通院先が決まって2週間くらいしたころやっと就職が決まり、初めて外に出て働くことができました。緘黙のひどい状態では奨学金をもらっても返せないので高校卒業後は大学に行かなかったので授業料を払えるめどのついた28歳のころ通信大学に入学しました。30歳で発達障害の診断を受けたのでそれまでは障害は開示していませんでした。診断を受けて障害を開示したところ当時の発達障害者支援センターに今までで一番障害を理解してくれた職員がいて障害の配慮に一生懸命な職員が大学にいて卒業できるように支援をしてくださったおかげで大学を卒業することができました。30半ばで楽団に入って中学の時に吹いていたフルートをまた始めました。発達障害や不安障害を持っているので地震やコロナの度死ぬほどつらい思いをします。フルートのみの団体に所属してフルートオーケストラで演奏をしたりかんもくの自助会を主催したりしています。コロナに耐えるのも限界を超え死ぬ寸前だったころ訪問看護を利用することになり、障害に理解ある看護師と出会うことができ、15年前利用していた地活の経営をするNPOの講演会で自立生活の聞いて、自分もこんな生き方がしたいすごいと思った生き方に近づけて良かったです。私には障害を理解して支援してくれるサービスがなかったので代わりに親がした分身体障でヘルパーを使って一人暮らしをして親を頼らない人のように自立はできてきませんでした。自立は障害を理解して支援をしてくる人がいてくれてこそできることだと思います。訪問看護を使うようになったのと同じころかんもくの自助会を始めるきっかけとなった発達障害の自助会を全国に作る活動をしている人にもオンライン自助会で出会いました。以前とは変わり果ててもう利用できない場所も出てきましたが、障害を理解しようとしてくれる人も増えてきて現在に至ります。