数年前、
コンプレックスの塊で考えが浅く、
その時々の感情でもって言動する人を
 
“知恵遅れの三歳児”とし不憫だなと
思うことにしたこと。
 
また、
確たる信念もビジョンもなく状況、環境に
左右され生きている人を“思春期の高校生”
 
と思うことで自身の心の安定を図ろう試みたこと。
 
両者とも、私に何かを気付かせるために
神様が送り給うた使者(つかい)だと気付いた
とブログに書きました。
 
一昨日、
医師で随筆家の斉藤茂太氏(1916-2006)が
同じようなことを『ほがらかに品よく生きるー
 
モタさんの言葉』 (新講社)という著書に
書かれているのを見つけました。
 
少し書いてみます。
 
“他山の石:
どんなものでも自分を磨く助けになるの意。
 
他の山でとれた粗悪な石でも、
自分が玉(宝石)を磨く砥石(といし)に使える。
 
自分がやっていることは、
なかなか気がつかないものだ。
 
だが、相手の言動で不愉快な思いをすると
「自分も気をつけよう」と思い、
 
「あれやっちゃいけない」、
「ああならないほうがいい」
と気がつく。
 
これはありがたい。
 
この嫌な人のおかげでまたひとつ、
やってはいけないことがわかった。
 
そう思うと少しは口惜しさが晴れる。
 
また、
その場で負けたような気がして嫌な気分でも
 
内心「なんとかあいつをやっつけてやろう」
「追い越してやろう」と自分が努力する
エネルギーの源泉になる。
 
まわりがあまりいい人ばかりでは、
幸せかもしれないが満足してしまい、
 
それ以上に発達しないということにもなり得る。
 
しかし、ありがたいことに世の中は
嫌な人にことかかない。
 
だからしょっちゅう発奮することができる。
人間観察の力も養われる。
 
〔中 略〕
 
あなたの周囲にも、きっと「感じの悪い人」
がいるいだろう。
 
その人は実は、神様がおつかわしになった
悪い見本例である。
 
毛嫌いせずに、
「いい人間関係をつくるのに役立った。
ありがたや、ありがたや」と
 
つぶやいてみるといいのである。”
 
さすが、作家でもある齋藤先生、
うまく表現されていますね。
 
昨日、
久しぶりに天然温泉のスーパー銭湯に
行ってきました。
 
そうだ、病気の早期快癒をめざして
“湯治”も悪くないなと思い立ち、
 
ネットで調べてみると、
以前よく行っていた「みどりの湯」という
上記のスーパー銭湯がヒットしたわけです。
 
このテーマでブログを書こうと決めていたので、
人の多く集まる銭湯は、
 
かっこうの人間観察の場となりました。
湯に入りながら、
 
やたら険しい顔をした人、楽しそうな人、
同じ体験をしているはずなのに、
 
表情は千差万別、
しばらく、その人たちがどんな育ち方をして、
 
何を思って今ここにいるのか、
他山の石なのか、
良いお手本にすべき人なのか。
            
想像力を膨らましてみました。
 
今朝、道路のゴミを拾っている人を
お二人見かけました。
 
なんとなく、心がホッコリ。
             駿介