・大津、出水、そして全国の子供たち、死んじゃいけない~ヘロの独り言 -3ページ目

・大津、出水、そして全国の子供たち、死んじゃいけない~ヘロの独り言

・ 全国で子供たちが陰湿ないじめによって死に追い込まれている。
  命を奪うものは直接の加害者だけじゃない。見てみぬふり、時には言葉の暴力や直接の暴力で、子供たちを死に追いやる教師もいる。
  そんな狂った社会に向けて、老人は怒りをこめてつぶやきます。

進行する言論統制、
マスコミはこのままズルズルと後退しつづける気か(5)

あさひ

まだ生きているか、新聞人魂
風塵だより 鈴木耕  ★OISOSANのブログ 転載

どんなに沖縄の人たちが「米軍新基地建設」に反対しようと、世論調査などでどれほど「反原発」の意見が大きかろうと、安倍政権は、自らの耳に痛い声を聞こうとはしない。
批判を浴びた“言葉”を少し言い換えることで、まるで中身も変わったようなフリをして、しゃあしゃあと同じことを繰り返す。
今度は恐れ入ったことに、安保法制の恒久法で、自衛隊が戦争している他国軍の後方支援もできるようにする法律の名称を「国際平和支援法」とする方針だってさ。呆れて開いた口が塞がらない。「平和」を破壊しようとするうしろめたさから、やたらと「平和」を使いたがるのが安倍だ。例の「積極的平和主義」がその典型だけれど、これほどロコツに法を無視し、憲法をないがしろにし続ける政権は、まさに「戦後以来」(安倍言葉)だと思う。

かつて青島幸男参議院議員が国会の予算委員会の場で、当時の佐藤栄作首相(岸信介元首相の弟、つまり安倍晋三の大叔父にあたる)に対し、「あなたは、まるで財界の男メカケじゃないか」と痛烈な言葉を浴びせ、大揉めになったことがあった(1971年)。
いま考えると、人権的にはかなりの問題発言ではあった。けれど、当時、やたらに財界首脳との会合を繰り返し、国民ではなく財界の意向ばかりを重視する政策が多い、との批判を浴びていた佐藤首相へ放った青島議員のこの矢は、国民からやんやの喝采を浴びたものだった。
そんなキツイ質問や批判を浴びせかける野党議員は、いまや絶滅危惧種になっている。一強他弱といわれる国会状況のなかで、野党議員たちの委縮ぶり、不勉強ぶりはほんとうに情けない。失言暴言妄言スキャンダルが多発する安倍内閣へ、鋭い一太刀を食らわすほどの勉強家が、もう野党にはいないということか。マスメディアが報じた記事だけを基にした質問では、安倍内閣にせせら笑われるばかりだ。

佐藤栄作元首相にはこんなエピソードもある。
多くの新聞から、厳しい批判を浴び続けていた佐藤首相は、最後についにブチ切れた。
退陣記者会見の場で「新聞はぼくの言ったことを正確に書かない。ぼくは偏向的な新聞は嫌い、大嫌いなんだ。ぼくは直接、国民に話したい。テレビを大事にする。新聞記者はこの場から出て行ってください。ぼくはテレビカメラに向かって話す」と言い放った。
これに対し、新聞記者たちは抗議したが、佐藤首相は応じなかった。そこで「おお、それなら出て行こうではないか」と、全員(多分、読売や産経の記者たちも)がゾロゾロと記者会見場を後にした。残された佐藤首相は、ガランとした会見場で、テレビカメラだけを相手に、滔々と持論を述べ続けたのだった(1972年)。
安倍晋三首相は現在60歳、佐藤首相退陣の時は18歳。この大叔父の退陣の場面をよく憶えていただろう。だから、第1次安倍内閣での失敗をクスリにして、第2次政権ではまずは新聞を屈服させようと考えたに違いない。

そこへ降って湧いたのが「朝日新聞問題」だった。かねてから昵懇の間柄の読売・産経は言うに及ばず、仲良しこよしの雑誌出版社(あそことあそこ…ですね)にまで手を回し、ひたすら「朝日が悪い」「朝日はウソツキ」「朝日は誤報」「朝日記事は捏造」「朝日は国益を損ねた」を繰り返した。“なんとか新聞”はその機に乗じ、「A作戦」と称する醜悪な販売戦略をたて、「朝日をやめて、ウチの新聞を」などと、膨大な金をかけたパンフレットや新書を無料配布して、朝日憎しを煽ったのだ。
この辺の事情に関しては、『いいがかり 原発「吉田調書」記事取り消しと朝日新聞の迷走』(編集代表・鎌田慧、花田達朗、森まゆみ、七ツ森書館、2400円+税)という分厚い本に詳しい。この本には、60人以上の人が協力。ぼくも小文を寄稿している。ぜひ、お読みいただきたい。

さて、この朝日叩きは一定の功を奏した(ただし“なんとか新聞”の部数は増えるどころか激減している)。
全国紙といわれる5紙は、ややリベラルな朝日・毎日、財界広報紙と呼ばれる日経、右寄りの読売、いまや極右とされる産経、との色分けがはっきりし始めた。
だが、リベラルといわれる朝日新聞の論調は、いまひとつすっきりしない。やはり、あの強烈な朝日バッシングがボディブローのように効いているようだ。自社記事の第三者検証委員会の人選や、保守派の論客(たとえば佐伯啓思氏など)のコラム登場、さらには声欄の妙に改憲色の強い投書掲載の増加など、何かにおもねっているとしか思えない紙面づくりが目立ち始めている。「社会の木鐸」「権力の批判」をモットーとしてきた朝日新聞が変質していくとすれば、それは恐ろしい事態といわなければならない。
すべての新聞社の記者たちが「おお、それじゃ出ようぜ」と、佐藤首相とテレビカメラを残して記者会見場から姿を消した1972年の光景など、夢のまた夢…か。
メディア支配を目論んだ“安倍一族の陰謀”は、とりあえず、新聞界ではそれなりの成果をあげたわけだ。そして、大きな話題になった「報道ステーション」の「圧力」問題。テレビ報道は、まさに崖っぷち。
マスメディアが権力に屈服してしまえばどうなるかは、歴史が教えているのだが、それを忘れてしまったか。

しかし、新聞人の魂は、まだ地方紙に残っている。
たとえば東京新聞
東京・関東地方のブロック紙(中日新聞社=名古屋市=発行)だが、このところ、果敢に安倍内閣批判を繰り広げ、ことに「原発報道」や「安保法制・集団的自衛権報道」などでは、多くのスクープを放つなど、新聞本来の力を発揮、昨年のJCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞を受賞している。「論点明示の報道姿勢」(新聞社の意見をきちんと示した上で、何が問題なのかを報道する姿勢)が評価されたという。
なお、「デモクラTV・熟読!東京新聞」は、東京新聞の各部長や一線記者たちが、取材の裏側を語る番組として好評だ。

沖縄では、沖縄タイムス琉球新報の2紙が頑張っている。
辺野古での米軍新基地建設に関する報道では、住民側に立っての主張を明確に押し出し、安倍内閣の沖縄政策の不備や不正を厳しく指摘、さらには海上保安庁の暴圧的取り締まりや県民の反対大集会などを、号外まで出して速報するという姿勢を示している。
安倍内閣は、菅義偉官房長官が翁長雄志沖縄県知事に、しぶしぶ面会を求めざるを得ないところまで追いつめられた。むろん、ほかの要因もあったには違いないが、安倍内閣が「翁長氏とは会う必要もつもりもない」という冷酷無比な態度を変えざるを得なかったのは、この2紙の報道によるところが大きいといっていいだろう。メディア本来の力である。
これも「デモクラTV・沖縄タイムス 新沖縄通信」という番組で、沖縄タイムス東京支社編集部長や地元からの中継や動画を交えて放送中。本土ではほとんど報道されない内容の濃い番組として人気だ。

その他の地方紙も、たとえば「集団的自衛権行使」や「改憲」に関しては、総じて反対の意見が強い。
週刊「新聞協会報」(2014年6月3日付)は、5月3日の憲法記念日にあたって各地方紙の「集団的自衛権」についての主張を概観して、次のように報じている。

平和主義否定を警戒
 (略)一方の地方紙。「賛成」の北國は「東アジア情勢の緊迫化を鑑みて、限定容認はやむを得ない」と理解を示した上で、「原子力事故の脅威をあれほど強調する野党や一部マスコミが中国の脅威に比較的寛容なのはなぜだろう」と皮肉る。
しかし地方紙全体は「反対」一色だ。見出しを見ても、▽「平和主義の破壊許さない」(北海道)▽「平和主義の尊さ認識を」(秋田魁)▽「空洞化する平和主義の理念」(神戸)▽「平和国家の基盤を危うくする」(愛媛)▽「平和主義の“重み”想起を」(熊本日日)―と、解釈変更が「平和主義」の否定につながるとの立場が大勢だ。静岡も「9条の空文化は『国民主権』『基本的人権の尊重』と並ぶ日本国憲法の三大理念の一つ『平和主義』を捨てることである」と力説する。
「戦争巻き込まれ論」への警戒も強い。山陽は「行使に慎重論が根強いのは、米国が行う戦争に巻き込まれる恐れがあるからだ」と指摘。琉球も「集団的自衛権の名の下にかつて行われてきたのは、大国による動議なき戦争ばかりだ」と批判する。また首相の狙いは、祖父の岸信介元首相と同じく日米の双務性を高めることだとみるのは京都。「集団的自衛権行使に向けた執念の背景には、そうした対等な『血の同盟』を目指す国家観がある」と独自の首相観を示す。
 他方、南日本は、平和主義を生かした外交を訴える。非戦の誓いを述べた前文と、それを担保する9条の規定こそ「最大のソフトパワー」であり、それを外交に活用すべきだと唱える。


どうだろう。
やたらに威勢のいい読売・産経などと違い、また、腰がひけつつある朝日を尻目に、かなり明確な意思表示をしているのが地方紙である。
また、しんぶん赤旗(2014年7月4日)の調査によれば、集団的自衛権行使容認の閣議決定(7月1日)の翌日の地方紙の主張は、賛成が3紙、反対表明が40紙だったという。
さらに、ジャーナリストの岩垂弘さんが独自に国会図書館で調べた2014年5月3日の新聞論調の集計結果がある(リベラル21)。それによると、全国53紙の社説(論説)の調査ではこうだ。

53紙のうち、社説欄のない紙面が6紙あった。これを除いた47紙についてみてみると、憲法問題と別のテーマを論じた新聞が1紙。残りの46紙はいずれも「集団的自衛権行使・解釈改憲」問題を論じていた。その論調を大まかに分類すると「集団的自衛権行使・解釈改憲」賛成が5紙、「集団的自衛権行使・解釈改憲」反対が40紙、「憲法記念日を日本の将来について各人が見つめ直す機会にしてほしい」という、いわば中立的立場が1紙であった。つまり、「集団的自衛権行使・解釈改憲」賛成10.9%、「集団的自衛権行使・解釈改憲」反対87.0%、中立2.2%という内訳だった。

これは、全国紙5紙も含んだ集計だから、明確に「改定賛成」としたのは、読売、日経、産経の3紙を除けば、地方紙では2紙に過ぎないということになる。安倍内閣が推し進める「改憲路線」には、反対論のほうが多いことが分かる。

「ABC部数調査」という統計がある。これは一般社団法人日本ABC協会が、各社の提出する部数報告に基づいて作成する、公的な統計書だ(雑誌にも同様の報告書がある)。とりあえず、一般的にはこれがもっとも信頼のおける部数だといわれている。
それによると、朝日・毎日・読売・日経・産経の全国紙5紙の2014年11月の統計では、24,003,088部。対してこの5紙以外の地方紙(ブロック紙)の合計は15,642,287部。
とすれば、安倍改憲路線支持を打ち出している新聞の総計は、読売+産経+日経+地方紙2紙=約1,433万部、批判派は、朝日+毎日+地方紙33紙=約2,336万部、その他1紙=約33万部、他に社説なしで分類不能6紙=約196万部ということになるだろう。
以上の概算は、上記の岩垂氏の分類を参考にして、数字を当てはめてみただけだから、むろん正確なものではない(地方紙の平均部数=約32万6千部として計算、1万部以下は四捨五入)。しかし、日本の新聞ジャーナリズムのおおよその動向把握にはなるだろう。
新聞には、まだ魂が残っていると信じたい。

こう書けば「新聞ジャーナリズムなど過去の遺物。ほとんど影響力を失っている。それが選挙結果にも現れているではないか」というような批判や揶揄が浴びせられるだろう。それは承知の上。
ぼくはたくさんの優秀で粘り強い記者たちを知っているし、彼らからの情報が、もっとも役立っている。権力と対峙するには、知的武器(情報)が必須である。それを提供してくれる存在が大切なのだ。闘う彼らの後押しをしたいと思う。

残念ながらテレビ界は、ほぼ権力に膝を屈したかに見える。しかし、必死の抵抗を試みている番組も少数ながら存在する。ぼくは、自分のできる範囲で、そういう番組を応援していきたい。

ライン2

本日も多くを語るつもりはありません。数点だけ。

地方新聞が頑張っている。
東京新聞が日本ジャーナリスト会議大賞を受賞した理由は何か。
「論点明示の報道姿勢」(新聞社の意見をきちんと示した上で、何が問題なのかを報道する姿勢)が評価されたからです。
思い出してください。過去記事で書いた「公平の原則=両論併記主義」との違いを。
時代遅れのこの原則が、権力におもねるマスコミの隠れ蓑に使われています。

地方新聞が頑張っている。
菅官房長官を沖縄に引きずり出したのは、沖縄タイムス、琉球新報の2紙の力です。
辺野古での米軍新基地建設に関する報道では、住民側に立っての主張を明確に押し出し、安倍内閣の沖縄政策の不備や不正を厳しく指摘、さらには海上保安庁の暴圧的取り締まりや県民の反対大集会などを、号外まで出して速報するという姿勢を示している2紙です。
本土の大新聞が黙殺する事件を、果敢に取り上げる2紙の存在意義はきわめて大きい。
たとえば、米軍の陰謀によって国民が不当拘束されるというデッチアゲ事件を、本土の大新聞は「拘束された」という事実のみを伝えるだけで、何も報道しなかったのです。

地方新聞が頑張っている。
だとしたら、宮崎県、大分県、鹿児島県に、地方新聞は存在しないのか?
これらの地域で起きた、そして今なお死者と遺族の尊厳が土足で踏みにじられている事件を、ジャーナリストとしてまともに取り上げようとする新聞はなぜ存在しないのか?
権力は中央にだけ存在するわけではありません。
おさない少年・少女たちの命が痛ましく奪われ、真相が闇に葬られようとするとき、事件隠ぺいの主犯が地方権力であるとしたら、これと正面から向き合い、戦うのがペンを持つ者の使命ではないのか。
頑張っている地方新聞もあれば、腐れ果てている地方メディアもある、ということでしょうか。
進行する言論統制、
マスコミはこのままズルズルと後退しつづける気か(4)


 自民党が17日にNHKとテレビ朝日の経営幹部を呼び、最近問題となっている報道番組の内容をめぐって、直接、事情を聞くことが分かった。

 複数の関係者によると、自民党の情報通信戦略調査会は、NHKからは「クローズアップ現代」でヤラセが指摘されている問題について、また、テレビ朝日からは「報道ステーション」でコメンテーターの古賀茂明氏が一方的に政権批判したことについて、話を聞く方針。特に「報道ステーション」をめぐっては、古賀氏が菅官房長官を名指しして「バッシングを受けた」と一方的に述べる展開となった点などについて、第三者も加えた検証の必要性などをただすものとみられる。

 政治とメディアの関係に詳しい上智大学の音好宏教授は、こうした自民党の異例の対応について、「政権・与党側がメディアを呼びつけるのは、成熟した民主主義の中では、相当注意しなくてはいけない」と述べた。また、「政治的なパフォーマンスと考えているかもしれないが、国民からは支持されないだろう」と指摘している。

古賀茂明氏だけじゃない
TVから一掃された“反政権”言論陣

日刊ゲンダイ 2015年3月31日  ★OISOSANのブログから転載 

 先週27日のテレビ朝日系「報道ステーション」で、降板をめぐる官邸やテレ朝上層部からの“圧力”を暴露した元経産官僚の古賀茂明氏(59)。「I am not ABE」と書いた紙を掲げ、強烈な最後っ屁をかましたが、古賀氏はまだマシかも知れない。

 この春の番組改編で、民放各社の報道・情報番組のコメンテーターから、安倍政権に批判的な論客は静かにほぼ一掃された。今や、反安倍論客はテレビ界の「絶滅危惧種」といってもいいほどだ。

 報ステでは、月~木曜のコメンテーターだった朝日新聞の恵村順一郎論説委員も3月いっぱいで降板する。昨年9月放送の慰安婦問題の検証で、「慰安婦問題は消すことのできない歴史の事実」とコメントしたのが、同10月のテレ朝の番組審議会で「ちゃぶ台返し」と非難された。ちなみに、審議会委員長の見城徹・幻冬舎社長は安倍首相の「メシ友」だ。

また、古賀氏と同じく「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明・宣言」の賛同人である精神科医の香山リカ氏も、3月をもって9年続いた日本テレビ系「スッキリ!!」のコメンテーターから外れた。香山氏は昨年、安倍首相の集団的自衛権の行使容認会見を「欺瞞的」と切り捨てていた。

 ほかにも、安倍政権の解釈改憲を真っ向から批判している作家のなかにし礼氏や、「秘密保護法は戦争できるようにするための法律」と喝破したジャーナリストの鳥越俊太郎氏原発事故後に東電と国の原子力行政を批判してきたジャーナリストの上杉隆氏や岩上安身氏らも、地上波から完全に姿を消してしまった。

■今の民放キー局に“意見は不要”の自粛ムード

「私も民放キー局から、だいぶ干されています」と打ち明けるのは、経済アナリストの森永卓郎氏だ。森永氏はアベノミクスに否定的な立場を明確にしている。

古賀さんのように官邸にニラまれなくとも、今の民放キー局には政権批判の自粛ムードが蔓延しています。広告収入は激減、制作費は大幅カット、少数スタッフで番組作りを強いられる現場は『始末書』を書く余裕すらない。裁判やBPOに訴えられたら面倒だ、とハナから厄介事を避ける風潮が強い。だから、コメンテーターには政治に波風を立てて欲しくない。いわゆる“左派”に限らず、コラムニストの勝谷誠彦さんや独立総合研究所の青山繁晴さんなど過激な“右派”も干されてしまうのです。元NHK記者の池上彰さんや、予備校講師の林修さんが重宝されるのは、政治的意見を極力抑えて、誰からも批判されないように時事ネタを解説するのが上手だから。今の民放キー局に“意見”は不要なのです

 かくして報道・情報番組のMCやコメンテーターには、ジャニーズのタレントやよしもと芸人ばかりが増えていく。
今のテレビは「言論の自由」を自らの手で握り潰している。

ライン2

論評は控えます。この事態が何を意味するか。皆さんでお考えください。
少なくとも、サンフランシスコ講和条約の締結によって独立を果たし、民主主義国家として再スタートをきって以降の日本で、これほど露骨な権力によるメディア支配が出現する事態を、ヘロは目にしたことがない。
日々は緩やかに移ろい、目にはっきりと映るほどの激変は感じられない。しかし、じわじわと積もりに積もった変化は、或る日気がついた時には、最早どうしようもないほど大きな変化になっていた。水が沸点で蒸気となり、氷点で氷となるように。時代が暗転するときの変化というのは、そういうものだ。とだけ、申しあげておきます。
母子
▼江東区役所前 母子像『希い』/ 東京大空襲でもっとも被災の大きかった江東区の慰霊碑として多くの区民の要望で作られた像

真実を知れば誰もが泣き、
そして怒りの声をあげる。
だから
彼らは真実を隠ぺいする…


宮崎県民のみなさん そして全国の皆さん
ぜひとも 宮崎県知事のブログ、コメント欄をお読みください
およそ民主国家の地方行政とは思えないような酷い事件に
多くの方の怒りがさく裂し、コメント欄にあふれかえっています


★宮崎県知事のブログ http://ameblo.jp/kouno-shunji/ 
注目していただきたい最新の記事3つと、そのコメント欄
 ○記事/サンメッセ日南20周年&国際ジャズデイ 2015-04-13   現時点のコメント25件
 ○記事/ひむかひこばえ学園 2015-04-11               コメント79件
 ○記事/東海宮崎県人会 2015-04-05                 コメント135件

どうしても知ってほしい新富町事件の真実

宮崎県新富町で、無残なイジメによって心身を病み、学校にいけなくなった少年がいました。
教室には行けなくても、大好きだった部活には行けた少年。なぜなら、そこにはイジメ加害者はいなかったから。
学校にその事実を訴えてもなんの対処もしてもらえず、部活には出るが、授業には顔を出さないという少年の状態に、なんのシグナルも感じなかった学校。
それどころか逆に、無理やりにでも登校させ、授業に出席させるようにと、両親が言われる始末。
親思いの少年は、心配をかけまいと無理して登校したが、そこには「学校にチクったな」と憎悪に燃える加害者が待ち受けていました。
少年の心と体はボロボロになりました。
そして彼は、縊死という方法で自らの命を絶つことを選んだのです。

隠ぺい、捏造と公文書偽造

少年の死は、遺族の知らぬ間に【病死】として県に報告されていました。言うまでもなく公文書への不実記載です。
少年の死の真相を知りたいという遺族の願いに、その場では調査の約束をしながら、実際には1年ものあいだ学校は何もしませんでした。
しびれをきらした遺族が、ついに内容証明を送ってアンケートの実施を求めると、学校はPTA会長同伴で訪れ、そして言ったのです。父兄会の同意がなければアンケートは実施できないと。
遺族の要望に押しきられる形で開かれた説明会では、学校は少年の死をあくまでも心の病によるものと説明、調査を始める前にイジメとの因果関係を否定するところから議論をスタートさせました。
そして、遺族をカヤの外においた状態でアンケートの実施は決定されたものの、それは遺族が望んだ【無記名】ではなく、受験をひかえた子供たちを相手に【記名式】で答えさせるというアンケートでした。
無記名か、記名か、それはとても重要な意味をもつ分岐点でした。
内申書を気にせざるをえない子供たちにとって、記名式での調査は真実から遠のくことを意味します。
さらに、記名されているからという理由で、プライバシー保護を持ち出して、遺族に対してさえアンケート内容の開示を拒む理由にもされたのです。
学校当局のこうした対応は、町教育委員会の指導によるものです。

死者の魂と遺族の名誉を踏みにじる卑劣なデマ
このままでは事件の真相は闇に葬られる。そう案じた遺族はついに、町当局を相手に訴訟にふみきることにしました。それは経済的にも、小さな地域内での人間関係という面でも、苦渋の決断でした。
ところが、この種の訴訟では異例とも言えるほどの少額の請求にもかかわらず、「あれは金目当ての訴訟だ」という声がたちまちのうちに広がり、遺族はまるでわが子の死をネタに町から金を掠め取ろうとする人間であるかのような扱いを受けはじめたのです。
デマはこれだけではありませんでした。
イジメはあった。しかし、死んだのはイジメられた方でななく、イジメた方の子だ。そんな信じられないようなデマが、まことしやかに流されていたのです。
こうしたデマは、事件に関与した者しか知りえない情報に裏打ちされています。そして、少年の死を自死ではなく病死だと言い張る人々の声と、ピタリと符合してきます。誰にでも分かることです。イジメた側の人間が、それを苦に自死することなどないのですから。
こうした学校当局の対応を指揮・指導してきた新富町教委、遺族と一面識もない教育長は、訴訟が起こされたことにたいして「これまで遺族に寄り添ってきたのに、残念だ」などとテレビインタビューに堂々と答えました。

大津は大津 ウチはウチと豪語する町長、これを支える宮崎県当局
この事件の裁判は、その冒頭から異様な光景で始まりました。被告新富町の弁護士が、亡くなった少年の母親の陳述を拒絶したのです。揉めに揉めたあげく、最後には裁判長の判断で陳述は実行されたのですが、それは原告弁護人が驚くほどの非常識な行為でした。一人の少年の無念の死をどう捉えるべきか、そうした観点に立つべき法廷に、ただ訴訟勝敗の駆け引きのみに走ったこの弁護人は、実は宮崎県当局の顧問弁護士でした。つまり、町と遺族の係争に県が公費で介入し、ただ勝ち負けのみを主眼に置いた法廷戦術を駆使してきたのです。
第一審の地裁では、捏造を含む公文書をそのまま丸呑みし、遺族の声には耳を傾けないような、およそ社会常識とはかけ離れた判決が下されました。
しかし二審の高裁は遺族の主張に歩み寄り、賠償請求を取り下げる条件で、事件の真相解明と再発防止の取り組みを町に認めさせるという和解を勧め、遺族もこれに応じました。
賠償金などどうでもいい。真相が解明され、今後二度とこうした事件が起きないような、しっかりとした取り組みがなされるならそれでいい。勝訴にはこだわらない。遺族の判断はそうしたもので、これも苦渋の決断だったと言えるでしょう。
ところが、この和解協議の席に着いた1官吏(教委課長)は、この和解案を町当局にもち帰ることもなく、ましてや町議会にその是非を問うこともなく、その場でこれを一蹴しました。

実に驚くべきことです。
この1官吏の独断? 身の保全を優先する役人の在り方から見て、それはありえません。
いかなる提案がなされても受け入れない、協議にも応じない、そうした決定がなされていた。つまり、町組織の民主的運営も、町議会も無視した決定=独裁が、あらかじめなされていたと見るしかありません。その独裁者は誰か?
すぐに判明します。
この直後、町議会で「大津の事案に学べ」と発言した議員の声に励まされて町当局を訪ねた少年の父親に、新富町町長は明確にこう言い放ったのです。
『他所は他所、ウチはウチ』=大津は大津であり、新富町はそれに左右されない。
この言葉を詳細に見るなら、全国の「イジメ事件解決」の端緒を開き、イジメ対策法の制定の力となり、今後の事件対応のスタンダードとなるべき大津の取り組みを、真っ向から否定したということです。さらに詳細に言うなら、イジメ対策法の規定そのものを真っ向から否定する発言を、こともあろうに地方自治体の首長が行ったということです。
これでは裁判どころの話ではない。宮崎県新富町には、国家が定めた法律も通用しない教育現場の闇が存在するということになります。

以上がこの事件のあらましの経緯です。
まだまだ書くべきことは数多くありますが、より詳しい経緯は本ブログの他記事と、遺族のブログでご確認いただきたいと思います。

宮崎県知事 貴方にあらためて問います


こうした経緯をふまえ、このブログではちょうど一か月前の3月15日、宮崎県知事あてに公開質問を行いました。それは知事のブログにも投稿しました。
町と遺族の係争に、町の民主的な運営を指導すべき立場の県当局が顧問弁護士を差し向けて、町を庇護する。つまりは町のこうした姿勢は、県そのものの姿勢なのかと問うたわけですが、一か月を経たいま全く黙殺された状態です。
質問にも付記しましたが、黙殺は黙殺で結構です。それが何よりの回答と考えます。
が、この事件の真実を知った方々が、知事のブログ・コメント欄で怒りと嘆きのコメントを寄せられています。驚くほどの火の手があがりつつあります。
たかだか千有余の固定読者しかいない当ブログも、その火の手が波及し、驚くほどのアクセス数になりつつあります。
マスコミ向けに行動される方、行政に乗り込む方、はては中央政府の議員たちに陳情におよぶ方々が続々と現れてきておられます。
コメント欄の火の手をよそに、何も応じることなく平然とブログを更新され続けていますが、はたしてそれでいいのでしょうか。
宮崎県民はけっして愚かではありませんよ。
今は地域のしがらみに縛られて沈黙されている新富町の皆さんも、けっして愚かではありませんよ。
これほどの理不尽がまかり通るような地は、この国のどこにもないのですよ。
進行する言論統制、
マスコミはこのままズルズルと後退しつづける気か(3)


福島原発廃炉の悲観的見通し
NHKのインタビュー 国内には報道せず

武蔵野市議 川名ゆうじ blog  ★OISOSANのブログより転載

NHKが東京電力福島第一廃炉推進カンパニーの増田尚宏社長に、廃炉作業の見通しについてインタビューした番組を制作したが、海外向けに報道し国内には報道していないことが分かった。
インタビューはNHKワールドニュースが2015年3月31日に放送したもの。現在、NHKのサイトでも視聴することができるが、国内向けには放送されていないという。このことを指摘しているのは「Finance GreenWatch」だ。

 増田社長は「And I must be honest with you I cannot promise that I will always make the right decision」(正直に申し上げて、私が正しい決定をするということは約束できない)と述べており、悲観的な見通しを語っている。

 正直な内容であり、事実がそうなのだと思う。とても、コントロールされてはいないのだろう。国内向けの放送されないのは、放送内容が“コントロール”されているからだろうか?

 Finance GreenWatch 東電・廃炉責任者が悲観的な見通しを語るも、NHKは国内では報道せず(NHK:阿修羅)とNHKのワールドニュースをご覧ください。

 原発事故は終わったのではないことは明らか。それでも、再稼動、推進しようとの動きが出ている。させてはならない。

ライン2

もはや何をか言わんや、です。
原発事故は国民の生命に関する最も重要な問題ではないでしょうか。
福島原発廃炉の見通しについて、その責任者が語った重要な情報を、海外には発信しておきながら国民には伝えようとしない。
NHKはもはや言論メディアとしての魂を失い、骨の髄まで腐りかけていると言わざるをえません。

政権にとって都合の悪い情報は、それが国民の生命にかかわる重要なものであっても隠ぺいする。
福島で今なにが起きているのか。子供たちの健康被害にかんする報道も、いつのまにか消え失せてしまいました。当時の新聞記事を最下段に掲載しておきます。
そのかわり、雁屋哲氏が『美味しんぼ』で現地の方々の鼻血問題を描くと、すぐさま風評被害を生むものだという攻撃が展開され、ジャーナリズムはこれを真正面から論評しようとはしない。すべてを『なかったこと』にしようとする勢力に迎合し、媚びへつらっているとしか考えられない姿勢です。現地の方々、とりわけ子供たちの健康被害はどうなっているのか。これでは、政府や東電の発表はもちろん、メディアの報道も信じることができない。

私たちはウソを報道したりはしない。メディアはそう反論するでしょう。
しかし、伝えるべきことを伝えないことも、ウソに匹敵する犯罪的行為なのです。

健康被害
進行する言論統制、
マスコミはこのままズルズルと後退しつづける気か(2)


報道の自由
人質事件後、政権批判の自粛が社会に広がっている――。フリージャーナリストや学者らが3月9日、会見を開き、「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」を発表した。インターネットなどを通じ、映画監督森達也さん、社会学者の宮台真司さん、作家平野啓一郎さんや中島岳志さんら表現に携わる1200人が賛同し、NHKのディレクターや新聞記者も名を連ねた。

世界とは異なるテレビを見せつけられている日本人 (田中良紹) 2015-04-05  ★OISOSANのブログより転載 
http://ameblo.jp/oisosama/entry-12011679913.html?frm_src=favoritemail

 前回の「フーテン老人世直し録」に、安倍政権が前時代的な「放送法」を根拠に言論に圧力をかける実態を書いた。世界は多チャンネル時代を迎えていて、放送に対する考えもそれに伴い変化したが、安倍政権は放送電波が希少な時代の「公平の原則」を持ち出して言論を画一化しようとする。多様な言論を保証する時代に日本政府が逆行するのはなぜか。その歴史的経緯も書かなければならない。

多チャンネル時代が到来したのは70年代後半である。アメリカで有線のケーブルテレビ放送が普及した。電波には限りがあり地上波放送のチャンネル数は少ない。一方でテレビ受像機を買えば誰でもが放送を見ることが出来る。そのため放送事業者には「公序良俗に反しない」、「政治的公平を確保する」などの放送の制約が課せられる。

ところがケーブルテレビは加入すれば30以上のチャンネルがあり、ただし見るのは有料である。つまり本屋で本を選んで買うのと同じである。自分で選べるのだから中身に制約を課される必要はない。ケーブルテレビの魅力は地上波放送では出来ない事をやるところにあり、ポルノや宗教や政治のジャンルがコンテンツになりうる。

ケーブルテレビに次いで80年代には衛星放送が始まった。こちらは電波だがデジタル技術によって100チャンネルを超す放送が可能になった。こちらも有料放送であれば地上波のような制約を受ける必要はない。

そうした多チャンネル放送が始まった頃、アメリカでスリーマイル島の原発事故が起きた。そして地元の地上波局が「原発反対」の立場で放送した事が「公平の原則」違反と批判された。その時、女性の政治団体が異議を唱えて裁判を起こし、連邦最高裁は「公平の原則」は「言論の自由」に反するとの判決を下した。

チャンネル数が増えた時代に電波が希少であった時代の「公平の原則」を一律に押し付ける事は、憲法が保障する「言論・表現の自由」を侵すと判断したのである。連邦通信委員会(FCC)は1987年に「公平の原則」を撤廃した。これによって番組で必ず両論を取り上げる必要はなくなり、ただし反論があれば別の機会に反論を放送しなければならなくなった。

こうしたアメリカとは逆の道を歩んできたのが日本のテレビである。旧郵政省はまずケーブルテレビの普及を大幅に遅れさせ、衛星放送を優先させる方針を採った。そこで導入されたのがアメリカが打ち上げをやめ、世界のどの国もやっていないBS放送である。

BSはチャンネル数が少なくコストも高い。アメリカはデジタル技術によって100チャンネルを超す放送が可能なCSで衛星放送を始めた。ところが日本の中曽根内閣は日米貿易摩擦の解消を理由にアメリカが打ち上げなかったBSを買ってきてNHKに打ち上げさせた。

表向きの理由は離島にNHKの電波を届けさせる難視聴対策である。しかし背景にあったのは中曽根内閣の「戦後政治の総決算」路線だった。85年に日本は世界一の債権国となり、押しも押されもせぬ大国に上り詰めた。そこで中曽根内閣は被占領体制から脱却し、戦前の復活を目指す道を歩み出したのである。

まず狙ったのが占領軍によって解体された「同盟通信」の復活だった。「同盟通信」は大本営発表を流した戦前の国策会社であるが、同時に情報機関の役目も果たしていた。その役割をNHKに負わせるため、BS放送を利用してNHKの巨大化を図ったのである。
この時BS用の番組制作のためと称してNHKは30以上の子会社を持つことが許された。 

世界の放送が多チャンネルに向かう中、日本だけはチャンネル数の少ないBS放送に多くの世帯を加入させ、多チャンネルの主役であるCS放送やケーブルテレビの普及は後回しにされた。BS放送に参入できるのは地上波放送局と新聞社や大資本である。こうして既得権益は守られ、新規参入を排除して、その後に多チャンネル化しても、希少な電波で放送していた時代の「公平の原則」の考え方が継続されたのである。

もう一つ、日本のテレビが世界と異なるのは新聞とテレビの系列である。アメリカでは全国紙と全国ネットのテレビが系列化されることを禁じているが、日本ではすべての全国紙とテレビの全国ネットが系列化している。そのため新聞がテレビを批判し、テレビが新聞を批判する事はない。

さらに言えば、テレビが免許事業であるため、政府権力から免許取り消しの脅しをかけられると系列の新聞社までが脅しに屈する。この異常な形は朝日新聞社が教育専門の放送局であったNET(日本教育テレビ)を系列化し、総合放送局にするよう当時の田中角栄総理大臣に陳情した事から始まる。その結果、毎日新聞とTBS,日経新聞とテレビ東京の系列化が促され、新聞とテレビのもたれ合い関係が完成した。最近では東京新聞だけが政治権力に屈しない新聞社として評価されるが、それは系列のテレビ局を持たない強みから来ているのかもしれない。

そして自民党がテレビ局に露骨に口出しするきっかけを作ったのはテレビ朝日である。93年の総選挙で初めて自民党が野に下った時、テレビ朝日の報道局長が「政権交代をもたらしたのは田原総一朗と久米宏だ」とバカな自慢をして物議をかもした。それは全く政治を知らないテレビ人の妄想なのだが、これに怒った自民党はテレビ局の報道番組をすべてモニターしていちいちクレームをつける体制を取るようになった。それからは国民の見えないところで常時自民党からテレビ局にクレームが付けられている筈である。

今回、そのテレビ朝日の番組に対し、官房長官が「放送法」を振りかざして脅しをかけ、それにテレビ朝日が恭順の意を表したことが国民の目に焼き付けられた。それは常時行われている政治権力とメディアの関係が表出した一瞬の出来事である。ゲストコメンテイターが意識的に問題を顕在化させたことで国民は番組の裏側をのぞき見たが、一番組の特異なケースである訳ではない。日本のテレビが世界とは異なる仕組みと考え方を積み重ねてきた結果である事を日本人は知る必要がある。

ライン2

何度も書いてきていますが、日本の言論の自由は今、未曾有の危機に直面しています。
戦後70年にわたって、歴代保守政権が着々と積みあげてきた言論封殺の仕組みが、ここにきて一気に牙をむき出しつつあるということです。

その理由としては、次の二つのことがあげられます。

戦後70年めに至った今日、悲惨な戦争体験、無残で愚かしい言論統制の実際を、身をもって体験してきた人々の多くが他界し、言葉として知っていたとしても、それを実感できない世代が国民の大半を占めるようになったから、ということです。
歴代保守政権といえども、その内部には悲惨な体験の実体験者が存在し、それらの方々の存在が政権の暴走を抑止する防波堤の役割を果たしてきました。しかし、そうした方々は他界し、あるいは引退してしまいました。あとに残ったのは、観念の世界で戦争ゲームを楽しむだけの高級暴走族だけになってしまったのです。
まさしくそのタイミングを見計らって、これまで営々と積み上げられてきた民主主義破壊の仕組みが、一気にその牙をむき始めたのです。

二つ目は、こうしたタイミングで登場したのが、戦後の歴代内閣の中でも、中曽根内閣とならんで最も好戦的で、覇権国家への回帰願望が最も強い極右内閣=安倍政権だったということです。
思えば、米国の押し売りに呼応して原発の導入を推進したのは中曽根康弘元首相でした。
大日本帝国の内務大臣であった正力松太郎氏の全面協力を得て、彼が社主をつとめた読売新聞の「原発は安全・安価な未来のエネルギー」という一大デモンストレーションに助けられて、今日の原発大国日本のカタチを作り出した中曽根康弘。
この好戦的で戦前回帰願望の強い人物と、いやそれ以上に幼児的とさえ言えるほど短絡的な極右内閣を率いる安倍晋三氏が、原発事故の教訓を無視し、その危険な実態を無視してまで再稼働を強行しようとするのは、両者の相似性から見て当然の成り行きです。
中曽根元首相が原発導入に踏み切ったウラの理由、それは核開発能力の保持だったと言われます。安倍晋三氏に同様の思惑がないと、誰が言いきれるでしょうか。

日本人は自分が置かれた立地点をしっかりと見定めるべきでしょう。
上記の記事で田中良紹さんが呼びかけられていることを、しっかりと受け止めるべきです。
日本の常識が世界の常識とは限らない。
日本の常識が、世界の非常識であることも実に多い。
それは、私たちが受け取る日常の情報が実は巧妙に加工されたもの、あるいは断片化され、あるいは部分的に隠ぺいされて、ありのままの情報として伝えられていないことに起因します。
まず皆さんの頭の中に残っているはずの「公平の原則(両論併記主義)」を疑って見るべきでしょう。

報道ステーション事件での古賀氏の行動を批判する人々の論拠が、この公平の原則をマスコミの基本ルール、不変不動の真理とみなしていることに気づくはずでしょう。
竹田圭吾さんは自身のブログの中で古賀氏を批判し、『 コメンテーターという立場としては、古賀さんが行ったことは、テレビで自分の考えを述べる機会を有している者としての責任を放棄するものであり、視聴者への裏切りではなかったかと思う。僕個人の考えとしては、コメンテーターは番組のパーツに過ぎない。』と述べています。そのうえで『ひとつのニュース番組や情報番組がパッケージとして情報を提供するなかで、観ている人がニュースについて自分の意見を形成するために必要な視点や知見、異なる考え、映像やスタジオでのプレゼンではカバーされない情報などを、できるだけ数多くの種類、提供するためにスタジオに座っている。』『 なのでスタジオにいる5人のうち4人が「右」と言ったら、僕は個人的には「右かな」と思っていてもコメントでは「左」と言う。』とまで述べています。

長くなるので、詳細は以下のOISOSANのブログでご覧いただくとして
★ http://ameblo.jp/oisosama/entry-12011279764.html
竹田さんのこの主張は典型的な「公平の原則」に立つものであると同時に、それ以上に、きわめて重要な問題、現在のマスコミ人がかかえている考え方の危険な一面を表しているとも思います。
番組の公平さを演出するために、ときには自分の考えと反対の意見を述べる、それは伝えるべき情報の【加工】を意味するとはなぜ考えないのか、ということです。
コメンテーターが番組のパーツという意見は百歩譲って認めたとしても、それは情報を正しく伝えるという意味での容認であって、情報を演出・加工することまでをも容認するものではありません。どうもこの方の意見は、報道人としての最も大切な姿勢よりも、まず番組ありきという所から始まるようです。
情報の演出・加工の容認は、即、表現の自主規制、情報の断片化と、甚だしい場合は重要部分の隠ぺいにまで繋がりかねない大きな問題をはらんでいます。

古賀氏批判の大半は、もちろん善意の立場からのものも少なからずあるとしても、ほとんどがマスコミ人のルールとしての【公平の原則】と番組制作を至上とした【演出】の立場にたつものばかりです。そうした観点からは、いまマスコミをはじめとする言論界の危機にたいする正しい認識、正しい情報を伝達しようとする姿勢など生まれてくるはずがありません。
古賀氏の行動は、言論統制の進行に警鐘をうち鳴らすものでした。
そして、実に皮肉なことに、古賀氏を批判するマスコミ人の言動は、かえってマスコミがいま置かれている危機的な状況を自ら物語ることになっていると考えます。

竹田さんは、この問題に『ユーモアで対抗したい』と述べて、宮武外骨、マッド・アマノ、新聞の風刺マンガやコントグループの「ザ・ニュースペーパー」まで持ち出していますが、現在の「ユーモア」にたとえば添田唖蝉坊ほどの鋭さもない(つまりは自主規制)ことや、岡林信康などをはじめとする実に無数の楽曲が【放送禁止曲】となっている現実を、一体どうとらえておられるのでしょうか。

つまり、現在の「情報」は送り手の自主規制による【演出】と【加工】の範囲内でしか国民には届けられていないのです。文化面では「公序良俗」という逃げ言葉でごまかしがきくかもしれません。しかし、先日沖縄で起きた「基地侵入による反対派逮捕」というデッチアゲ事件はどうでしょう。それがデッチアゲによる不当拘束であることは、当日の事件現場の映像が生々しく証明しています。にもかかわらず、そうした観点からこの事件を取り上げた局はひとつもなく、おそらくそうした情報を用意されなかったがために、これに言及したコメンテーターもまた皆無という現実、これをどうとらえればいいのでしょうか。
局は自主規制という【演出】で情報を選別し、パーツとしてのコメンテーターはその演出の枠内で、ただ耳ざわりのいい見解だけを申し述べる、これでいいのでしょうか。

私たちは目を奪われ、耳を奪われ、そして口まで奪われようとしている。
この現実をしっかりと見定めるべきでしょう。
かろうじて私たちには、ネットという武器があります。
しかし、だからこそ権力もまたこれに注目し、甘い蜜に群がり寄る者どもを動員して、真実を伝えようとする人々を貶め、誹謗し、揶揄することで、そうした動きを故意に阻害する勢力を培養しようとしているのです。