今、自分の人生37年を生まれた時から振り返って『一歩ずつの記憶』というタイトルで書き始めた。

ただ、書いている今も時間は止まらない。

どこかで区切りをつけなければ、永遠と書き続けることになるだろう。

 
 『一歩ずつの記憶』を書く直前までを、区切りとして書けたらいいなと思う。


 なんで書こうと思ったか、きっかけはなんだったのか・・・後に分かる。


 また俺がこの37年間のうちで、いったいどれだけ親に『感謝』して生きてきたのか、

振り返ってみることで、もっと『感謝』をしなければいけない、

この先もっと自分が変わらなければいけない、そう思った。

 
 だからこそ、ノンフィクションで恥をかきながらでも書いていこうと。


 一度も手紙を書いた事がない俺が、

生まれて初めて親に宛てた『感謝の気持ち』をここで手紙にして残そうと思う。


 親には何も知らせてないけど、いつか読んでもらえたら嬉しいかな・・・。

 


 by まーOASIS
 

君の笑顔が

 僕の心の扉を

   開いてくれた



まーOASIS

四歩目【奇跡】


 依然意識不明で、麻疹から急性髄膜炎が併発して高熱が続いたまま何日も過ぎた。

それでも先生方、家族、親戚全員が僕を見守っていてくれた。


 意識不明の僕には熱をコントロールすることすらできなかったから、

24時間体制で考えられない量の氷と、点滴で解熱し続けてくれてたんだって。

それにも問題があったらしく、氷のあてすぎで火傷をしたり、部分的に凍傷になったりしてたみたい。

 それから何日経っただろう、僕は奇跡的に意識が戻ったんだ。


 全く憶えてないけど、前に述べた父の手帳に書かれていた、

『生き返った』が、きっとこの事なんだろう。


 家族、親戚全員、病院中の先生方、看護師までがお見舞いに来てくれて、

病室を埋め尽くしてくれたみたい。


 先生方、看護師さん達は、

『よく頑張った・・・1%の奇跡だ!!』

と泣きながら喜んでくれたんだって、母が教えてくれた。


『だからほら、自分の生命線見てごらん、あなたのプツンて切れてるでしょ?』って。


 確かに言われれば、切れてるけど・・・

『シワだろ?』

って言うと、母は、

『あなたは、1%と言われた強運の持ち主なんだから!!よく頑張ったよ!!』

って、俺の手のひらを叩きながら言った。


 確かに母の言う通り、急性髄膜炎は調べてみたら、とても怖い病気だった。

 
 奇跡的に意識が戻った僕は、うつ伏せにされたままベットに固定され、

タオルを噛みながら大泣きしていた。


 幼くして脊髄に穴を開けられたあの激痛・・・突然、鈍い音が体中に響いたんだ。

今でもハッキリと憶えてるよ。
 
 だから今、話しをするだけでも背中が疼く。


 頑張ったのは俺じゃなくて、

 お父さん、お母さん、親戚のみんな、琉球大学病院の先生方、看護師さんだよ。

 
 今更だけど・・・

 助けてくれて

 どうもありがとう。
三歩目【生死の境】


 意識不明のまま、骨折、打撲、そして麻疹、急性髄膜炎の併発。

最悪の状態で入院していた僕は、間違いなく生死を彷徨っていただろう。


 体中の骨折、打撲でろくに動かす事もできない体なのに、

いったいどうやって手術だ治療をしたのか母親に聞いてみた。


『そりゃ大変なんてもんじゃなかったよ。あなたは幼くして意識不明で、動かしても平気だと思っても、そこら中骨折してるし、担当の先生方も本当大変だったんだよ。』


 聞いているだけだと、

『ん~そっかぁ』

だろうな。ただ相当大変だったという事は話してくれている母を見て伝わってきた。


 母を見た時、目には大粒の涙が・・・。

それでも、話しを続けてくれた。

『先生方はね、お父さんとお母さんの、一生のお願いを訊いてくれてね・・・。』


『それだけじゃないよ、途中もうだめだろうって諦めた日もあった、もうだめだってね。』

『だからお父さんは親戚全員を沖縄に呼んで、みんなに集まってもらってね、実は、あなたの顔を最後にと、見に来てくれてたんだよ。』


 俺は幼い頃の写真を眺めながら、母の話を呆然と聞いていた。


『あなたは、幼くしていろんな経験、体験をしてきたでしょ。私たちが味わうことないもっと辛い事。』

『だからお母さん達もあなたとは違うけど辛い経験、体験をしてきたんだよ。』


『動かなかった真っ青のあなたを見て、泣きじゃくっていたら、先生がね、

最期まで諦めちゃいけない!絶対に助けるんだ!って希望と勇気をくださってね・・・』


 母は当時のことを思い返し、泣き崩れながらも話してくれた。


 こんな真剣に母と向き合って話したの、何年ぶりだろう・・・

と思いながら、前に述べた、天井から見ていた記憶が頭に浮かんだ。

 
 きっと記憶の光景ではないと思うけど・・・。
 
 俺にしか分からない記憶・・・

 一生なぞなんだろうな。
二歩目【入院】


 僕自身に記憶がないから、ここからは親から聞いたままを書きます。


 意識を失った僕は、琉球大学病院に救急車で運ばれた。

全身を強く強打して骨折、打撲、酷い状態での緊急入院だったらしい。

 
 入院中、ただこれだけでは済まなかった。


 意識がない僕は、体中が高熱になり、

まず麻疹が併発してしまい、しまいには急性髄膜炎までもが併発してしまったらしく、

絶望的だったらしい。

 当時の主治医と両親は毎日、毎時間、1分1秒が大変だったということを聞かされた。


 親曰く、

『あなたは、あの時この世からいなくなったんだよ。』

と、未だ事ある事に言われる。


 両親は、必死の思いで僕を助けてくれた。

確かに俺が小学生だったかな、タンスの中に閉ってあった父親の手帳を覗いた時、

『死とか生き返った』とか日付ごとに書かれていた記憶が・・・。


 更に記憶を辿ると、僕が寝ていたベットの横には布団が床に必ず敷いてあった。

この記憶は、怖いもので、天井から見降ろしている風景の記憶なんだ。

はっきりと憶えているけど、説明がむずかしい、そんな記憶・・・。


 当時、急性髄膜炎にかかると治る率が非常に低く、先生からは、

『助かる率は1%です。』ってはっきりと告げられていたらしい。


 両親は、

『それでもかまいません!それでも何とか!・・・何とか助けて!・・・』

と、必死にお願いをしていた日々だったんだ。


 僕は、先にも述べたけど、天井からの記憶・・・鮮明に憶えている記憶は実はそれだけではないんだ。

ベットに横たわる母親、隣りに先生、その後ろに父親、向かいには看護師が立っていた記憶も

鮮明に憶えてる。


 きっとこれは幽体離脱とかって思われるだろう。

例えそうだとしても、話しかけるわけじゃないし、話しが聞こえてたわけでもない。

ただ天井から見ているだけの記憶。

ベットに誰が寝ていたか?って自分だとしても、自分は見えてなかったよ。


 ちょっと怖い話に反れちゃったけど、意識がなかった時間(約1カ月)の間には、さまざまな事が

この琉球大学病院の一室では起こっていた。