ここまでの約5年を書いてきて、気づいた。


そう、僕は父親と一緒に過ごした時間が少ないってこと。


幼稚園の前で撮った写真は、母とだけ。


撮ってくれたのも、母のお父さん、僕のお爺ちゃん。

ここで父の転勤が決まって、父は単身で大阪へ。


またこの頃、母のお腹の中には、赤ちゃんがいたんだ。

母はひとり、いろいろと悩んでたんだって。


俺は今、この年になって親の夫婦の関係を初めて知って、『残りの人生は、幸せに過ごしてほしい・・・』
って思ってさ。


俺とお母さんの今までの関係、ちゃんとまとめて、必ず読ませるから、もう少し待っててくれな。
【五歩目】


 退院後の記憶も薄っすらだけど・・・


 ただハッキリ憶えていたものが一つあった!


 それは、『トミカ』のミニカー。


 父は僕が退院後、なにしろミニカーを沢山買って帰ってきてくれた。

それで一人で毎日遊んでたんだ。

縦列駐車してみたり、ぶつけ合ってみたりして・・・。

それはそれで、楽しかった。


 母に聞いた話によると、病院の先生から、

 『外で遊んではいけない。』

 『外気に触れないように、気をつけてください。』


 特に一番気をつけなければいけなかったのは、

 『蚊に刺されないように!』
 
ってことだったみたい。


 僕はミニカーを見ただけで、車種がわかるくらいまでに好きになっていった。

実際に父も、車が好きな人で、沖縄に住んでいた時に乗っていた車は、

日産のスカイラインだった。

 写真を見て知ったんだ。


 ミニカーのお土産だけで、100台以上持ってたよ。
 
当然今でも持ってる・・・。


 これって僕のリハビリだったのかな・・・?

一度覚えた車種は、絶対忘れることなかったけど、

両親は、毎日、

『この車なに?』ってしつこいくらいに僕に聞いてきてたんだ。

 
 そして月日が経ち、病院の先生から外出が許されるようになり、

晴れて僕は、年中の途中から幼稚園に入園することができた。


 と同時期に、父の転勤が決まった・・・。
 そして僕は生死を彷徨い、奇跡的に回復し、退院・・・。

まだ3歳だった僕は、お礼の一つも言えていない。


 どうしても、『ありがとうございました。』とお礼が言いたくて。


 まったく記憶にないけど、機会があればと、

当時の先生方に直接お会いしたいとも思ってたんだけど・・・。


 過去にも、親を頼って試みてみたけど、まったく分からずで・・・。


 沖縄にも何度か行ってみたんだけど、やっぱり3歳時の記憶で薄っすらだから、

行く所行く所が、ただの観光になってしまったりで、

『やっぱり夢だったのかなぁ・・・』

なんて思ったり考えたりするんだ。


 この話しは、生まれて初めて今ここで話したんだ、暴露だな。

どうせ、いろんな所で話しても信じてもらえる訳でもないし、

前にも述べた通り、両親、親戚、先生方しか知らない事だし・・・。


 でも、TVとかで、

生死を彷徨うと、幽体離脱して話しかけても、返事がない・・・

なんてことは、俺は信じない。

そもそも、話しかけるなんて事はなかったし、

自分で自分を見る・・・

なんてことも、なかったしね。


 やっぱり自分は一人しかいないって事だよ。

 間違いない!
 集中治療室から、無菌室、そして一人部屋・・・

それぞれの部屋で僕は、

大変な経験をしたと、母は教えてくれたけど、
 
崖から転落して、意識不明、救急車で運ばれて、生死をさまよったなんて、今でも考えられない。


意識が戻って退院するまでの闘病生活で、

僕が今でも憶えている事は前に述べた事。


 病室の上からみんなを眺めていた事、

 ドリルでの手術で、鈍い音が体中に響き、痛かった事、

 オレンジ色の水枕、そしてタオル、

 たったそれだけ。


 食事でお子様ランチがでた・・・とか、

 多少でも楽しかったっていう思い出が、全くなく、
 沖縄で過ごした僕の生活は、景色にしても、建物にしても、目に飛込んでくる全てのものが、ボヤーっと水色掛っていた。


鮮明なのは、少々色褪せた写真に写っている僕。


 本当に不思議な時間だった・・・そんな気がする。

すべてが夢だったのかなって・・・。


今、こうして書きながらも、自分でも信じられないでいる。

そんな出来事が、沖縄の琉球大学病院であったという事実は、
両親、親戚、当時関わってくれた病院の先生方しか知らないんだから・・・。

だからこそ、こうして書いている事、

手足が動く事、

目が見える事、

耳が聞こえる事、


今、普通に生活できている事に、みんなに感謝しなきゃいけないんだと、思いながら書いています。

だって何かが少しでも違っていたら、今の俺はきっとこの世にはいなかったのだから・・・。

これも、運命なのかな・・・。

『ありがとう・・・』
 約6時間の手術が終わり、麻酔が効いたまま眠っている僕を見て母は、

意識不明だった時の僕を思い出してしまったと、

暫く泣いていたらしい。


 麻酔がきれた僕は、唇がカサカサで喉がカラッカラだったんだって・・・。

だから10分置きくらいに、母がお湯を飲ませてくれていたらしい・・・。

僕はまったく憶えていない。


 意識が戻ってから、憶えている事といえば、

オレンジ色の水枕と、タオル。


 今でも実家に、当時愛用していたオレンジ色の水枕が、

大切に保管されていて、母はその水枕を見る度に、

『これ見ると、当時大変だった事を思い出すんだよね。』

『私、貧乏性だから捨てられないんだ。』って

言っていたけど・・・。


 その時の母を見て、俺はこう感じた。

 ―捨てられないんじゃなくて、

  当時の辛く大変だった事を忘れない為じゃないか・・・と。


 そしてタオルは僕の必需品だった。

自分の匂いなのかなぁ?

洗濯のいい匂いなのかなぁ?

必ず親指に包んで、ジュウジュウ音をたててしゃぶっていた。


 そしてタオルの余っている部分を、顔に被せて匂いを嗅ぎながら寝ていた。

確か、小学校の1年生くらいまでそうしてたかな・・・。


 幼かった頃は、誰でも似たような事はあったと思うんだ。


 僕はひどい癖だったけど・・・。