原作:只野温泉 

ストーリー:東京テルマエ学園 共同製作委員会

 

第二章 第1話 『回想』

 

誰かに呼ばれたような気がした。

 

 声の出所を探そうと周囲に視線を巡らせたところで、違和感を覚える。

 立っている場所が、目に見える風景が、視界に捉えた人達が、どこかふわふわとしていて掴みどころがなく感じられた。

見えているのに、実際にこの場には存在していないかのようで、例えるならば蜃気楼だどか。

 

 なぜだろうかと首を傾げる。

 

 気にすることはない、そんな小さなことなど無視して歩けとその声が言う。少しばかり思い悩むも、深く考えようとしたところで眩暈に似たものに襲われて立ち眩み、その場に膝をついてしまう。

 

『……どうした、もう疲れたのか?』

 

 声に、頷く。

 

『だらしねぇな、さっさと立てよ。置いてっちまうぞ?』

 

 口調はきつく、言っている内容も厳しいものだが、その声に染みこんでいる優しさと温もりを感じる。

 いやだ、置いていかないで欲しい。でも、足がうまく動かない。どうすればよいのか。

 

『余計なこと考えるから疲れるんだよ。考えずによ、楽にいこうぜ。その方が人生、良いだろ?』

 

 本当に考えなくて良いのだろうか。

 でも、考えると辛くなる。頭がくらくらする。ならば、やはり考えない方が良いのか。

 

『あたりめぇだろ、ほら、疲れたなら手ぇひいてやっから』

 

 温かく、懐かしいように感じるその口調に涙が出そうになる。

 差し出された手を握ると、力強く握り返してくれて嬉しくなる。この温もり、この柔らかさを失わない為ならなんだって出来る、そう思えた。

 引かれるままに歩いていく。どこに向かうのか分からないが、手を繋いで引っ張っていってくれるのであれば問題ないはずだ。

 

だって、彼が間違っているわけがないのだから、何も考えずついていけば良いのだ。

 

(……てやんでぇ、べらぼうめ!)

 また、声。しかも先ほどまで同じ声に聞こえるのに、なぜか別人としか思えない。

(いつまでそんな手、握っているつもりだ。さっさと離して、よく見てみろよ)

 

 言われて、素直に手を離し、手の平に視線を落とす。

 なんだこれは。いつの間にか手にべったりと付着した、ぬるりとして、得体のしれないもの。先ほどまで繋いでいた手に、こんなものついていただろうか。

 

説明してほしくて、安心させてほしくて、“彼”を見上げる。

(ちゃんと見てみるんだよ、目ん玉かっぽじってよ。目をそらさずに、な)

 

 男の表情は見えない。ゆっくり視線を下ろしていくと、男が着ているシャツの鮮やかな柄が目に入ってくる。

 ……いや、それは柄などではなかった。では何だというのか。嫌な汗が背中を伝い、尋ねてみようと再び顔を上げてみると。

 その“彼”はいつの間にか遥か先を歩いていた。慌てて追いかけようとするが、足が動かない。

 どれだけもがいても、足掻いても、体を動かすことも声を出すことも出来なかった。

 出来ることは、決して届かぬ手を伸ばすことだけだった。

 震えながら、姿の見えなくなっていく“彼”に向けて、ただ伸ばすだけ――――

 

「…………待ってっ!!」

 びくん、と体が痙攣して跳ね起きる。

 

 束の間、自分が今どこにいるのか分からなくなる。目を見開き、周囲の喧騒を視界に捉えるにつれ、ようやく少しずつ理解し始める。

 

 先日のゆかり女史の宣言通り、飛騨高山に向かう途上のバスの中だ。昨夜なかなか寝付けなくて寝不足だったためか、はたまた適度な車内の温度と程よい揺れのせいか、いつしか眠りに落ちていたのだ。

 

 車内を見回せば、馬鹿みたいに大声ではしゃいでいる男子生徒、お菓子を交換して食べ比べをしている女子生徒、携帯ゲームに熱中している男子。やっていることは様々だが、誰もが自分自身のことに夢中で気付かれた様子はないのが幸いだった。

 

 だが、さすがに隣席に座っている相手には気が付かれただろうと横目でちらりと窺ってみると、源口優奈もまた目を閉じて規則正しい寝息を立てていた。

 

 安堵すると同時に、先ほどまでの“夢”のことを考えて頭を振る。

 

 既に夢の中身は朧になりつつあったが、それでも忘れられないこともあった。

 あの声、あの後ろ姿、そしてあの――――

 

「……くっ」

 手で額を抑え、吐き捨てるように呟く。

 

「ああもう、最低……っ」

 これが、塩原穂波の飛騨高山での課外実習の始まりであった。

 

第二章 終

 

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