小説 東京テルマエ学園

 

原作:只野温泉 

ストーリー:東京テルマエ学園 共同製作委員会

 

第一章 第3話 『入学案内』

 

宿泊客がいない旅館の中はひっそりとしていて、七瀬がせんべいをかじる音までがアキの耳に響いてきた。
 

「ねえ、七瀬……」

 コップにペットのウーロン茶を注ぎながら、アキが言った。

 

「ん? なに?」

「もしかして。機嫌、悪い?」

「何で?」

「ほとんど、喋らないし……」

「そんなこと……」

 そう言ったものの、七瀬の視線はアキに向かなかった。

 

「私……何か、言った?」

 一瞬だけ、七瀬が上目遣いにアキを見た。

「さっき……買収の話し、してたとき」

 もう一枚せんべいを取り上げようとして、七瀬は手を引っ込めた。

「良いんじゃないかって、言った」

 七瀬にそう言われて、アキは何度か瞬きした。

 

「あ……だって。お客さん、来ないし……お婆ちゃんも、もう年……」

 向かってきた七瀬の厳しい視線に、アキは思わず口を閉じて体を引いた。

「それ、本気で言ってるの?」

 口調まで厳しくなった七瀬に、アキは顔を白くして小刻みに首を振った。

「お婆ちゃんがあんだけ頑張ってるのに、アキがそんなこと本気で言ったら絶交だよ!」

「言わない言わない、言わないから。怒ンないで!」

 アキは、ちゃぶ台をひっくり返しそうな勢いで七瀬にすがりついた。

「うちと違って、ここは古いから取り壊されてお湯だけ持って行かれちゃうよ! アキの家、なくなっちゃうよ!」

「わかったから、わかったからー!」

 アキが本気で泣き出してしまい、七瀬は慰めなくてはならなくなった。

「どこも苦しいのは一緒なんだから。皆で何か考えて、もっとお客さんに来てもらおうと思ってるのに」

 アキに抱きつかれて、迷惑そうにしながら七瀬が言った。

 

「アキー。温泉お湯落として、掃除しといておくれー」

 廊下から祖母の声が聞えた。

「はーい!」

 アキは元気に返事をしたが、七瀬の表情は再び曇った。

こんな時間に掛け流しの浴槽からお湯を抜くのは明日の予約がないからだろうが、次に浴槽が満たされるのはいつになるのだろうか。

 

「七瀬、一緒にお風呂入ろう!」

 アキが無邪気に言ったが、七瀬は顔をしかめた。

「やだ。掃除もさせる気でしょ」

「お願いー、掃除は私がするからー!」

 しつこく頼むので、七瀬は渋々アキと一緒に部屋を出た。

 

「男湯?」

 脱衣所の暖簾をくぐりながら七瀬が聞いた。

「一昨日のお客さん、男の人三人で……女湯は先週からお湯入れてないの」

 温水旅館は、七瀬の想像を上回る厳しい状態のようだ。

「七瀬のとこみたいに、バスでお客さん迎えに行くくらいの旅館ならいいけどさー」

 アキは空を見上げてもう一度ため息をついた。

「こんないい季節なのにさ、うちは今日も明日も予約なしよ……」

 アキが元気なく言うと七瀬も小さく頷いた。

 

 

「うちもお客さん減ったって言ってるし……週末はいいんだけど、平日だと渋の中歩いてる人も、絶対少なくなったよね」

「これじゃもう、風船のともしびだよね……」

 アキが言ったことに七瀬が反応するまで数秒かかった。

「風船?」

「もう……危ないって意味でしょ?」

「何で風船が危ないの?」

「知らないの? ほら、ロウソクの火に風船が近づいたらパン!って破裂しちゃうじゃない」

 納得と疑い半々の表情で七瀬が曖昧に頷き、しばらくしてから聞き返した。

「ねえ……それ『風前のともしび』じゃない?」

「フーゼン?」

「ローソクがね。風吹いてるところに置かれたら、消えちゃうでしょ?」

「うん」

「だからもう、凄く半端なく危ないって意味」

 アキはしばらく七瀬の顔を見つめ、それから聞いた。

「風船は?」

「風船は……あんまり関係ないと思う」

「なんで?」

「なんでって……言われても……」

 

「ところで、さっきの……買収の話しに来てた男の人」

 湯に浸かりながら七瀬が言った。

「うん」

「お姉ちゃんに、凄くなれなれしいの。腹立つ」

 吐き捨てるような七瀬の口調に、アキはちょっと動きを止めた。

「そりゃ……お姉ちゃん美人だし……七瀬も」

「取って付けたみたいに言わなくていいから」

 何かイベントがあるたびに、春陽館の星野姉妹は組合に引っ張り出されるのだ。

「旅館はおっきいし……娘は美人だし……」

「またそれ言うか」

 七瀬がお湯の中をすーっとアキに近づいた。

「あんたにはこの胸があるでしょ?」

「ぎゃあっ!」

 お湯の中で七瀬がアキの胸を揉んだ。

「そうだ、ここのお湯を『巨乳の湯』って宣伝しようよ。アキが看板娘になって」

「や、だ!」

「絶対人気出るってば」

「女の人しか来ないじゃない」

「きっとカップルで来るよ」

「だから、さわらないでー!」

 湯船の中でのろのろと追いかけっこをしていると、不意にアキが止まった。

 

「あ、タロだ」

「へ?」

 アキの視線をたどって七瀬が見上げた先には、露天風呂の目隠しになっている松の木。その枝に灰色の大きな塊がとまっている。

「あ、あのサルまだ来るんだ」

「ヒマなとき、お婆ちゃんも時々エサやってる。あいつイタズラしないし」

 サルが身軽に露天風呂の塀に飛び乗り、それから風呂の中に降りてきた。

「ひさしぶりー」

 アキが言うとそのサルは洗い場を歩いて近寄ってきた。

「残念、いまあげる物ないよ」

「そいつ、何持ってるの?」

 七瀬の言ったことが理解できたように、サルは座って片手に持っていた物をアキに差し出した。

「なにか、くれるの?」

 アキがそう言うと、サルは歯をむき出して小さく声を出した。

「違うの? 見せに来たの?」

「何なの?」

 七瀬が覗き込もうとすると、サルは威嚇するような声を上げた。

「七瀬は見ちゃだめなの?」

 

 それはポケットティッシュほどの四角いビニールパックだった。

「あ、それ。この前駅で配ってたやつだ」

 七瀬が言った。

「それ、飴入ってたでしょ」

「あ、入ってる。もしかしてこれ出してほしいの?」

 サルが喉の奥で小刻みに音を出した。

「あ、そうなの」

「アキはいつからサル語喋れるようになったの?」

 七瀬が聞くと、アキは袋を空けながら首を傾げた。

「喋れるって言うか……何となく言いたいことわかるくらいだけど。はい、これでしょ?」

 中に入っているミルクキャンディーの包みを剥いて渡すと、サルは手で受け取ってすぐ口に入れた。

「こっちは? いらない?」

 一緒に中に入っていた紙に、興味はない様子だった。

「私ももらったけど、飴だけ食べて見ないで捨てちゃった。何なのそれ」

 アキが二つ折りの紙を広げると七瀬も覗き込んだ。

 


 

『聖・東京テルマエ学園開校・一期生募集!』

 と。

 

「……東京テルマエ学園?」
 

 アキと七瀬の声が重なる。

 そう、この一枚の紙片が、しがないただの女子高校生だったアキを変えることになる、全ての始まりだった。

 もちろん、この時のアキはその後の自分がどうなるかなんて知る由もなかった。

 

 

 東京テルマエ学園なんてうさんくさそうな名前の学園が、果たして何をする場所なのかも知らなかったのだから。

「日本初の、温泉……専門学校?」

「テルマエって……なに?」

「七瀬?」

 もう一度話しかけると、七瀬は慌てたように顔を上げて瞬きした。

「あ……はい」

「のぼせた?」

「ううん」

 二人とも何となく松の枝を見上げたが、もうサルの姿はなかった。

 

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つづく

 

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