今、私たちは、ひとつの決断を迫られています。世界をどう秩序づけたらいいのかを分からずに、途方にくれて、このまま殺戮と撃ち合いを続けていくのか、それとも複雑化したこの状況から抜け出すための概念、表象を形成しようと真剣に試みるのか。

 

古い時代からうるさくつきまとって来た唯物主義に、今でもくっついていたい人たちの数は、これからますます多くなるでしょう。今は多分、まだそう多くはないでしょうけれども。

 

そういう人たちは、外的な考察だけを好んでいます。からだがアーリマンに占領されていたら、確実にそうなります。アーリマンは人びとの頭に、外的な空間関係に従って、概念、表象、行動を決めさせるだけでなく、外的な状況に従って、概念、表象を作り出させます。

 

ただ、だまされてはいけません。今、私たちはひとつの大きな流れの前に立っています。コンスタンチノーブルの公会議で、かつて個人の中の霊が否定されました。人間はからだと魂だけから成り立っている、と教義上決められ、人間の中の霊について語るのは異端だとされました。今同じように、今度は魂までもが否定されようとしているのです。多分それほど遠くない将来、1912年に行われたときのような或る学術会議の席で、そもそも霊と魂のことを考えるのは、病的なことだ、と決められるような事態がやってくるかも知れません。そうしたら、からだについてしか語らない人たちだけが、健全だと見做されるでしょう。

 

霊も魂も存在する、と考えるのは病気の徴候だ、と見做されるでしょう。病んでいなければ、そうは考えない、というのです。そういうときは、病気の徴候に対する治療薬も見つけ出されます。中世においては霊が否定されましたが、今や医薬の働きを借りて、魂も否定されるのです。

 

人びとは「健全な立場」に立って、霊も魂も存在するなどと人体が考えなくなるような、そういうワクチンを見つけ出すことでしょう。

 

このようにして、二つの世界観の流れが鋭く対立するでしょう。一方は、霊と魂の現実に見合った概念と表象を作ろうと思索します。もう一方は、現在の唯物主義者の後裔として、身体を「健康に保つ」ためのワクチンを作ろうとします。言いかえれば、身体が魂や霊のようなくだらない事柄についてではなく、機械の中に働いている力について、宇宙の中で惑星や恒星を生じさせる力について、語るようにさせるワクチンをです。そういうワクチンは、物質の研究によって生み出されます。そのようにして、人類から魂を排除することが唯物主義の医者の手に委ねられるのです。

 

ルドルフ シュタイナー『悪について』われわれの生きる悪の時代の霊的背景

ドルナハ 1917年10月7日 高橋  巌 訳