人間がルシファーの霊たちに誘惑されて地上の領域へと引き降ろされたことによって、そして地上的な関心と欲望が人間を下へ押しやったことによって、本来アトランティス時代の半ばに起こることになっていたものとは別の事態が生じたのです。

 

このような事態が生じたために、人間が見たり理解したりすることができるものの中に、アーリマンの霊たちが -この霊たちを「メフィストフェレスの霊」という名称で呼ぶことも可能です- 混ざり込むことになりました。そしてそのことによって、人間は誤謬の中に、つまり「意識的な罪」と呼ぶことができるものの中に陥ることになったのです。そのために、アトランティス時代の半ばから、アーリマンの霊の集団が人間に働きかけるようになりました。このようなアーリマンの霊の群れは、何を目指して人間を誘惑したのでしょうか。アーリマンの集団は、人間が周囲の世界に存在するものを物質的に受け取るように、すなわち人間がこのような物資的なものを通して、物質的なものの真の根拠である霊的なものを洞察することがなくなるように人間を誘惑しました。一つ一つの石や、一本一本の植物や、一匹一匹の動物の中に霊的なものを見るならば、人間が誤謬の中に、そしてそれとともに悪の中に陥ることは決してないでしょう。人間の進化を先導する霊たちだけが人間に働きかけたならば、人間は感覚的な世界が語りかけてくるものだけを頼りにする場合に常に陥ることになる、あの幻影からずっと守られ続けたことでしょう。

 

では、人間を絶えず進化させようとするあの霊的な存在たちは、このような誘惑に対抗して-つまり感覚的なものから生じる誤謬や幻影に対抗して、どのような手段を講じたのでしょうか。人類を進化させようとする霊たちは、誤謬と罪と悪を克服する可能性を感覚的な世界の中から再び獲得することができるような状態に、人間を置くことを試みました。もちろん人間はゆっくりと、少しずつ、このような状態に置かれていったわけですが、「なぜこのようなことが起こったのか」ということの背後には、霊的な力が存在しています。つまり人間を進化させようとする霊たちは、「カルマを担い、それを作用させる可能性」を人間に与えたのです。人類を進化させようとする存在たちは、ルシファー存在たちの誘惑によって生じた損害を埋め合わせなければならなかったので、世界に悩みと痛みを、そしてまたそれと結びついた死をもたらしました。それと同じように、人類を進化させようとする存在たちは、感覚的な世界に関するアーリマン的な誤謬の中から流れ込んでくるものを修復しなければならなかったので、人間に「みずからのカルマによってあらゆる誤ちを再び取り除き、自分自身が世界に引き起こしたあらゆる悪を再び消し去る可能性」を与えたのです。もし人間が悪のみに、誤謬のみに陥っていたら、何が起こったでしょうか。そのときには、人間は少しずつ、いわば誤謬と一体になり、進化することができなくなったことでしょう。なぜなら誤謬や、嘘や、幻影を生じさせるたびに、私たちは進化の道筋に障害物を置くことになるからです。もし誤謬や罪を訂正することができないならば -つまり真の人間の目標に到達することができないならば- 、私たちは誤謬や罪によって障害物を生じさせた分だけ、絶えず進化の道筋を後退し続けることになるでしょう。もし罪や誤謬に対立する諸力としてのカルマの力が作用しないならば、人間が本来の目標に到達することは不可能になるでしょう。

 

誤謬を克服する機会が与えられないならば、人間は最後には誤謬の中に沈み込まなければならないでしょう。しかし、ここにカルマの恵みが現れたのです。この恵みは人間にとって何を意味するのでしょうか。カルマとは、人間が恐れ、おののかなければならないものなのでしょうな。そうではありません。カルマとは、人間がそれを与えられたことを宇宙の計画に対して感謝しなければならないような力なのです。なぜなら、カルマは私たちに次のように告げるからです。「お前が過ちを犯したならば、神はその過ちをそのままにはしておかない。お前が撒いた種は、お前が刈り取らなくてはならない。この過ちは、お前がそれを修正しなければならないように作用する。過ちを修正したとき、お前はそれを自分自身のカルマの中から消し去ったことになる。そうすればお前は再び、幾らか前進することができるようになるのだ」。

 

もしカルマがなかったら、私たちが人生の歩みにおいて前進することは不可能になります。カルマは、「私たちは一つ一つの過ちを再び償わなければならない。私たちは進化とは逆方向に向かう自分が行った行為は、すべて消し去らなければならない」という恵みを私たちに示してくれるのです。このようにカルマは、アーリマンの行為の結果として現れたのです。

 

ルドルフ シュタイナー『悪の秘儀』アーリマンとルシファー 松浦 賢  訳