私たちに内在しているものは、知性においては私たちをある程度まで導いてくれますしかし道徳的向上の歩みにおいては、神々の助けが必要です。だから私たちは眠りに沈みます。それは神的な意志のなかへと潜っていくためなのです。私たちの無力な知性をもってしては、それと立ち会うことはできませんが、そこでは神的な諸力が、私たちが道徳原理として受け取るものを、意志の力へと変容させています。私たちが本来は思想のなかでしか受け取れないはずのものを、私たちの意志のなかへと植え込んでいるのです。夜に目覚める意志の極と、昼に目覚める知性の極、この二つの極の間に美学的な領域が横たわっています。それは人間のなかに常に存在しています。なぜなら、人間は日中も完全に目覚めてはいないからです。目を覚ましているときも、絶えず目覚めているのは、よほど無味乾燥で生真面目な人びとだけです。人間は基本的には日中も少しは夢みる必要があります。覚醒時にも少しは夢みることができなければなりません。芸術、詩作、あるいはその他のただ単に現実的なだけではない活動に帰依できなければなりません。この領域に没頭できる人は、それによってある絆を編みあげます。それが立ち返って人間存在全体に生気を与えるのです。そのような思考内容に身を委ねますと、それが言ってみれば夢のような形で覚醒の生活のなかへ入り込みます。眠りの生活のなかにも、もちろん夢は入ってきます。そこでは本来の夢が眠りに入った意識に浸透しています。それは無味乾燥で不健康な人生を生きようとするのでなければ、すべての人間が必要としていることなのです。


夜と昼に夢を見て、ファンタジーのなかに生きること、これが二つの極の間にある中間領域です。私たちはここでも魂における三層を見出します。知性を通して私たちは昼間目覚めて思考し、アストラル界の影絵を担います。そうすることで、日常生活において有意義な発想と偉大な発明が生じてきます。また私たちは眠り、夢を見ますが、これらの夢は私たちの眠りの生活のなかにも入り込んできます。そのとき低次の天界もしくはデヴァカンがその影を私たちのなかに投げかけています。そして私たちはさらに眠りのなかで働き、私たちの意志に道徳性を刻みつけようとします。私たちはこのことを直接にではなく、その作用を通してしか知覚することはできません。夜の間の神的=霊的諸力のこの影響を私たちの思考で捉えることができるとすれば、そのときは高次のデヴァカンもしくは高次の天界から投げかけられた影が知覚されることになります。これらの影が私たちを促してこう言わせるのです。私たちの思想が善と美に仕え、私たちの知性の働きを貫いて神的=霊的生命の純粋な心臓の血が流れるとき、人生は初めて正当化される、と。


ルドルフ シュタイナー『血液のエーテル化』