‘25-12-23 “思い出4”
★Massy’s Opinion
・去る。12月17日 日産販売の林君から、電話があった。「大日本交通の海田社長が、僕に会いたいので、お邪魔したいと...」大日本さんは約200台で2ヶ所の営業所を持っている中堅の会社である。今の社長は2代目で、僕と気が合う方である。先日、ダットサン研究会の90周年パーテイーがあったが、現海田社長は都合がつかず来られなかったのでお会い出来なかったのだ。最近、横浜の山手から世田谷に引っ越されたので、我が家とも近くなった事もある。それにしても、僕は会社を1999年に退任しているので、それから、26年も経っているのに本当に有難い話だ。この間の「ダッ研」記念パーテイーもさる事ながら昔の話に遡って行く。先ずはダッ研の海外旅行の話、海田社長は当時のアルバムを持参され、「マッサン、ちっとも変って居ないですね...」「そんな事ないですよ、もともと薄い髪はさらに薄くなり足はガタガタ...」ダッ研は積み立てをして、2年に一度、海外旅行に行って居た、自費負担で家族の参加ありだった。あまり普段行かないような処へ行ったので、印象に残っている。娘にお土産を買うので、東京に電話をするときに海田さんは傍にいたのでよく覚えていらした。あの旅行は。、コモ湖のほとりの「ビラ・デステ」と言う最高のホテルに泊まりスイス迄国境を越えてカジノへ行ったりとても印象的な旅だった。さて、大日本交通の先代社長は九大の海軍技術士官でlpgガス自動車を一番始めに使われた会社である。付属品も家庭用のボンベを積み込んだ様なのだった。
その車が麻布近辺で火事になったのである。勿論NHKがすぐ陸運局に取材に入る。陸運局の整備課のS係長から僕の処へ電話が掛かって、増田君lpgってなんだよ、俺は何にも判らないよ。ブルーバードが燃えた言うぞ...liqufido petororium gasってなんだよ。直ぐ来てくれよ...」と言われた僕も解りやしない...直ぐ、4階の図書室へ行き百科辞典で調べて石油取り出す時に取れるガスで石油の代わりに成るんですと言う事をしらべて係長の処へ飛んで行った。それで、ダットサンといわずに小型四輪自動車と言う発表にして貰った。先代海田社長はその後、日本LPG研究会作り台湾、広州等から呼ばれて講演会に度々お供をしたである。今日、自動車燃料は、ディーゼル、電気、ハィブリッドと多様化しているが、先代海田社長は本当に先見性のあった方だと思う。今、wikipedia でもこの日産ダットサンの火災の記事は全然出ていない。小さな事件だったかも知れないが、自動車燃料問題を考えて居た先人が居たのである。先人社長はカメラ好きでハッセルブラッドで素晴らしい写真集を作り,僕も頂いたのである。