障がい者支援と哲学

障がい者支援と哲学

岐阜で障がい者支援施設オークハウスを運営するTETSUが、ケア倫理やクオリア、「関係性」「場」を軸に、障害福祉を哲学的に問い直すブログです。

人はなぜ「ここにいていい」と感じる場を求めるのか

 

「居場所」という言葉は、障がい者支援の文脈でよく使われます。
安心して過ごせる場所。自分のままでいられる場所。受け入れてもらえる場所。

しかし、この言葉は本来、特定の誰かのためのものではありません。

人間にとって、居場所は特別なものではなく、生きていくための前提条件なのだと思います。

心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求の中に「所属と愛情の欲求」を位置づけました。
誰かとつながりたい。どこかに属していたい。関係の中にいたい。

この欲求は、特別なものではなく、ほとんどの人が持っているものです。

さらに言えば、人はただ所属するだけでは満たされません。
その中で認められたい、受け入れられたいという思いも同時に持っています。

いわゆる承認欲求です。

しかし、ここで少し視点を変えてみたいのです。

私たちは「所属しているから安心できる」と考えがちですが、
実際には逆のことも起きています。

安心できる関係があるから、そこが居場所になる。

哲学者のマルクス・ガブリエルは、世界はひとつではなく、複数の「意味の場」によって成り立っていると述べました。

職場という場。
家庭という場。
友人関係という場。
そして、ケアの場。

人はこれらの場の中で、自分の位置を持ち、存在を感じています。

つまり、人は単独で存在しているのではなく、
場の中でしか自分を感じることができない存在なのかもしれません。

この視点から見ると、「居場所がない」という状態は、単に孤独であるということではありません。

それは、自分がどこにも位置づけられていない状態でもあります。

ここに、現代社会の大きな問題があります。

つながりは増えているように見える。
情報も人も、常に周囲にある。

それでも、「ここにいていい」と感じられない人は少なくありません。

むしろ、関係が増えた分だけ、
自分がどこにも属していない感覚が強まることすらある。

障がい者支援の現場では、この問題がよりはっきりと現れます。

社会の中で位置づけられにくい人たち。
役割を与えられにくい人たち。
評価の枠組みに乗りにくい人たち。

そうした人たちにとって、「居場所」は特別な意味を持ちます。

しかしそれは、障がいのある人だけの問題ではありません。

仕事を失った人。
人間関係に疲れた人。
役割を見失った人。

誰もが、ある瞬間に「居場所を失う」可能性を持っています。

だからこそ、居場所とは“支援”ではなく、
人間にとっての基盤として考える必要があるのではないでしょうか。

ここで、承認欲求についても少し触れておきます。

承認という言葉は、ときにネガティブに扱われます。
「承認欲求が強い」と言えば、自己中心的な印象を持たれることもある。

しかし本来、承認とはもっと単純なものです。

「ここにいていい」
「そのままでいい」

そう言われること。

それは評価とは違います。
優れているかどうかではなく、存在が受け入れられているかどうかの問題です。

哲学的に言えば、これは「存在の肯定」に近いものです。

人は、何かができるから認められるのではなく、
まず存在していることが受け入れられることで、初めて安心する。

その上で、関係が広がり、行動が生まれ、
結果として何かができるようになっていく。

順番は逆なのかもしれません。

居場所があるから、人は動ける。
認められているから、人は関わろうとする。

この構造を無視して、「まずは努力しろ」「役に立て」と言ってしまうと、
居場所のないまま人を動かそうとすることになります。

それは、とても不安定な状態です。

障がい者支援の現場で行われていることは、
特別なことではありません。

ただ、人が安心して存在できる場を維持すること。
関係が壊れないようにすること。

それは、どの人間にも必要な条件です。

居場所とは、与えられるものではなく、
関係の中で少しずつ作られていくものです。

そしてその関係は、評価や役割だけでは成立しません。

ただそこにいていい、という感覚。
その感覚を支える場。

それがなければ、どれだけ能力があっても、どれだけ成果を出しても、
人はどこかで立ち止まってしまうのではないでしょうか。

居場所とは、特別な支援ではなく、
人間にとっての最低条件なのかもしれません。