クオリアとは何か

今日は「クオリア」という哲学用語について、少し丁寧に書いてみたいと思います。
前回のブログでも触れましたが、この言葉は、障がい者支援を考える上で、とても重要な概念だと感じています。

クオリアとは、簡単に言えば「主観的な体験の質」のことです。
痛みの痛さ、心地よさの心地よさ、赤が赤として見える感じ。
それらはすべてクオリアと呼ばれます。
重要なのは、クオリアは本人にしか分からないという点です。

たとえば、同じ赤色を見ていても、その「赤の感じ」が他人と同じである保証はありません。
私たちは言葉を使って共有しているつもりでも、実際には自分の内側で起きている体験を、他者がそのまま理解することはできないのです。

哲学では、これを「他我問題」とも関連づけて考えます。
他人にも心があることは分かっていても、その中身を直接知ることはできない。
この限界は、どれだけ科学が進んでも消えることはありません。

障がい者支援、とくに言葉による意思表出が難しい方との関わりでは、このクオリアの問題がよりはっきりと現れます。
私たちは、表情や行動、反応を通して相手を理解しようとしますが、それはあくまで「推測」にすぎません。
本人のクオリアそのものに、直接触れているわけではないのです。

だからこそ私は、「分かったつもり」になることに、強い警戒心を持っています。
理解できたと思った瞬間に、相手の内面をこちらの枠組みで固定してしまう危険があるからです。

クオリアという概念は、支援者に無力感を与えるものではありません。
むしろ、「完全には分からない」という前提に立つことを促します。
その前提に立ったとき、私たちは相手を操作の対象ではなく、不可侵の内面を持つ存在として扱うことができます。

支援とは、クオリアを理解し尽くすことではありません。
分からなさを引き受けたまま、関係を続けること。
その姿勢こそが、支援の倫理の出発点なのだと、私は考えています。