『オアスペ』凄い!!

天国と地球と霊を解き明かした書。
(ご出版、ありがとうございます。)





前回の続き



【エスクラの神書】より
(紀元前約1550年~紀元後約1450年リカのサイクルの3400年の最初の3000年)(コスモン紀元前約3400年~400年)
(3000年〔エスクラ〕と400年〔エス〕を足して、ボンのサイクル全体の3400年と等しくなる。)



(※カユ孔子は話された。)
「無知な者と愚か者の前で、
私たちは掟によって話す。

チャインヤ(※中国)はそのような時代を過ぎてきたので、
そうだ、私たちの書物は、
中庸(両極のバランス)において説得力のあるものでなければならない。」


「学者に指図することは、宝を火に投げることである。
“ 学者に質問することによって ”、
私たちは学者を導くことができることが多い。」

「効果的に甘言を使うことは、
従われない指図よりも偉大である。
全財産を貧しい者に与えなければならないと金持ちに説教をすると、金持ちは逃げ去り、何も与えない。
金持ちに『少しお与えください』と言うとき、
そうしてくれるのだ。

この場合、より高い教えがより低い教えとなり、より低い教えはより高い教えとなるのだ。
《なぜなら、そこには力が働くから》だ。」

「『最高のことは創造主を愛することである』
と古代人が言ったが、
私もそう思う。

しかし、創造主が人格で、愛する価値があるということを < 証明するように、哲学者が私に頼んでくる > とき、
私は困惑してしまう。

【批評することなく、
創造主を人格として、そして、完全な善として受け入れることが、最も幸せなこと】だと、
私は思う。
(※それが純粋さに依るもの。)」

「創造主をバラバラに引き裂いて、
創造主の真価を知るために創造主の “ 部分について ” 考えようとした人間を
見たことがあるが、
<そのような人間は、結局、創造主を信じなくなるだけである> 。

“ そのような人間で、世界で善を成し遂げた者を、私は見たことがない。”

(※《創造主を、丸のみ》できるまでに純粋さのある心でなければ、世界で善を為し遂げることはできない。<いつもいつまでも分析ばかりし、実践は結局しない>から。)

器量のよい人間の前では、そのような人間は、
ウジを産むことに喜んでいるハエのようで、
自分には十分にかわいいが、
その状態の害獣を産む者のようである。」

「それでも、『悪には悪を行わせなさい。
なぜなら、創造主は、そのような者を狭い心を持つように創造されたからだ』、『ヤーウェイは、暴風雨を送って、収穫を破壊した』、あるいは『ヤーウェイは、汚い都市に熱病を送る』と言うなら、
そのような人間は、言葉と判断において、思慮深さに欠けている。」

「しかし、人間が創造物の一部であり、
その中で《人間は御業の役割を自分で行わなければならず、あるいは、高揚がその結果として起こると認識する者》は、
父について、理解が開かれている。」

「ヤーウェイの御顔にあまりにもすべてのことを投げかけることと、ヤーウェイをあまりにも信じないことの間に、中庸が存在し、それが人間を完成へと働きかける(発達させる)。」

「《解剖刀ではなく、愛と祈りで創造主を探そうとすることは、人間を最高の道へと導く。》

《最善を尽くそうとする一方で、創造主を信頼すること》は、よい哲学である。
(※《創造主と共働で世界を創るのだ》と理解していること。)

何もせず寝転がって、田畑に《種を植えること》もなく、やみくもに創造主を信頼することは、深い闇である。

(※<【自ら善き世界を創造すること】をしようとしないことは深い闇>である。つまり《悪とは、陽の悪と陰の悪があり》、粗暴であることが“陽の悪”だが、自ら考え善を行おうとしないことは“陰の悪”である。)」


「社会の欠陥に気づいている賢者は、
それを非難するのではなく、働いて(※動き行動し役割を果たして)、《その救済策を見つけようとする》。

《それは、高い天国の天使が、世界の偉大な【人間を成長させるため】である。》」








次回に続く



『オアスペ全訳第2巻』P589,590




“ヤーウェイの御名において
「御業の役割を自分で行う」しるしで
敬礼をお送りします!”