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この状況では、決定的対立に至ったとしても、モスクヮはまず確実に毛沢東を
支持すると思われた。
七月二五日、周恩来は「前線における作戦指揮を容易にするため」毛沢束の要求を容れることが
妥当である、と提案した。指導部は周恩来に対して軍の総政治委員を兼任するよう要望したが、周
恩来は重ねて、「あなたがたが周恩来に総政治委員を兼任せよと固執するならば……政府主席﹇毛﹈
は何もやることがなくなってしまう……これはひどく不適切である……」と、指導部を説得した。
八月八日、毛沢東は紅軍第一方面軍の総政治委員に任命された。
軍の指揮権は取り戻したものの、毛沢東と他の幹部との溝は深まるばかりだった。 一九三二年
夏、落介石は江西省の北方にある二つの革命根拠地に攻撃を集中させていた。モスクヮからの指
示により、中国共産党は紅軍全軍に対して連携してこれらの根拠地を援護するよう命じた。毛沢東
に与えられた役割は、攻撃を受けている二つの根拠地の近辺へ軍を動かし、近隣の町を攻撃して敵
の兵力を根拠地から分散させることだった。毛沢東はしばらく作戦どおりに動いたが、戦況が困難
になると、戦闘の続行を拒否してしまった
実際、落介石を倒す陰謀まで企てていた。ところが、毛沢東が淳州を侵略したのを見て、広東軍は警戒心を抱いた。淳州は広東省からわずか八〇キロほどしか離れておらず、危険が身近に迫ったのを受けて広東軍が行動に出たのである。水国という町の近くで、
紅軍は数少ない本格的な激戦を経験することになり、きわめて多くの死傷者を出した。紅軍の中で最もめざましい働きを見せたのは、少し前に蜂起して国民革命軍から紅軍に寝返った部隊で、彼らは諸肌を脱ぎ大刀を振りまわして突撃した。
★彼らは、 一九二一年一二月に寧都で蜂起して紅軍に寝返った指揮官以下一万七〇〇〇人の部隊である。蜂起にょって部隊が共産党側に寝返った例は、 一九二七年の南昌蜂使似鷺これが唯一の例であり、このあと何年も共産党側への寝返りはなかった。紅軍にこれだけ不要な犠牲と困難をもたらしたにもかかわらず、毛沢東は譴責を受けなかったば
かりか、逆に攻勢に出て、軍の最高ポストである総政治委員の職を要求した。毛沢東がこれほど強気に出られたのは、モスクワが毛沢東に対して信じがたいほど寛大な態度をとりつづけたからだっ
た。毛沢東が津州で時間をつぶしているあいだ、周恩来を含む党指導部は連名でモスクワに電報を打ち、毛沢東の行動は「百分之百的右傾機会(百パーセント右翼日和見)主義」であり「CI (コミンテルン)の指示に完全に反している」と訴えた。しかし、モスクワからの返事は、あくまでも毛沢東を指導部の一員として残し、体面と地位を保つように、という内容だった。