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伊賀上野城は大阪城を居城とした豊臣家の盛衰に絡んで運命を変えていきました。
未完の堅城ともいわれています。
城の全景昭和になって建てられた天守閣秀吉健在のころ、出城として街道が交錯する上野の地に建てられました。
東国に目を配ることが目的の小さな城だったようです。
いわば大阪城の守りのための城でした。
城の沿革ところが関が原の戦いで当時の城主筒井定次が徳川方についたため今度は一転大阪城を攻めるための城になったのです。
人々は敵と思えば味方、味方と思えば敵で、てんてこ舞いしたことでしょう。
入り口あたりのしゃしかし家康は本気で大阪攻めの戦略を練っていました。
大阪の陣が押された時、この上野城を本拠とする計画でした。
城主に城造りの名人といわれた藤堂高虎を任命しました。
石且ハ}高虎はここで戦いになることを想定してまず城を堅固な石鰍ナ囲いました。
想定外は許されないのです。
見事なのは城の西側にある高石梶B
297㍍で日本一の高さです。
大阪の城より見事なりといわれました。
横368㍍大阪城を意識していたのでしょう。
高石鰍フしゃ多く高虎はこの築城のため配下の伊賀忍者を使い58国、148城に忍ばせその普請を盗写させたといいます。
忍者関係写忍者の館は上野城の米蔵を移築したもの完成すればすごい城ができたでしょう。
ところが本丸、二の丸が完成し、さあ天守閣という時に強烈な台風が三重県を襲いました。
あっと言う間に天守閣の骨組みは吹っ飛ばされました。
そこで上野が大騒ぎになっている時、大阪では徳川方が勝利し豊臣はあえなく滅亡しました。
何か写やめいッ家康の鶴の一声です。
天守閣の再建は中止になりました。
豊臣を倒し自らが天下統一するため、もう城は不要と判断したのでしょう。
この城は江戸期から明治、大正、昭和の初めまで約300年間立派な石鰍ヨ示しながら天守閣の浣腸ないまま過ごしてきたのです。
天守閣写それじゃあんまりだということで有志が昭和になって天守閣を建てたそうです。
藤堂高虎という城主は強固な城を造る一方で見事な城下町を作っています。
碁盤状の町並みは情緒満刀Aたっぷりと昔の雰囲気がが漂っていました。
寺町通り写寺町通りには両側に七つの大きなお寺がならんでいます。
高虎の菩提寺、関が原の役や大阪の役で討ち死した武士のお墓がありました。
各寺しゃ武家屋敷がそのまま現存し町の家並みには昔ながらの格子戸の家がまだ現役としていたるところにありました。
町並み写しっとりとした情感。
この上野の町の環境が俳聖松尾芭蕉を生んだのも分かるようなきがしました。
写真えーちゃん文おかる