桜の花も散り、山桜が咲き始めた。

 はなみずきの花が咲き

 賑やかな季節が来ましたね。

 

 

フォローして下さった方々、ありがとうございます。

 

 

 さて、つづきになりますが、

 殺生石には、松尾芭蕉も訪ねていたようです。

 句碑がありました。

 

 当時の殺生石は、奥州街道から大分西に向かうので、山道でしたでしょうから、

 馬に乗って登ったようです。

 

 松尾芭蕉と見た景色を、333年後の私が見ている不思議

 少し変わったのは、木道が整備されていることくらいかな、

 教伝地獄とか、千体地蔵や盲蛇石などなく、

 自然のままの世界で、硫黄が立ち込めて、

 虫たちの死骸が、無数にあり

 毒気が強い、本来の? 殺生石の原風景だつたかも

 

 松尾芭蕉は、元禄2年4月19日に立ち寄ってる

 太陽暦では、6月6日になるようです。

 

 

 

「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」

と書かれています。でも、この句は、尾芭蕉門下の「麻布」という人が詠んだ俳句で、殺生石はかつては有毒の『硫化水素蒸気ガス』が今以上に漂っていたために、殺生石の上には鳥も飛ばないということを詠んだものです。

 

なぜ、芭蕉の句として刻まれているのかは不明です。

殺生石の雰囲気でているからかな?

 

 松尾芭蕉が詠んだ句

「石の香や 夏草赤く 露あつし」

 

殺生石の石は硫黄の香りがして、緑したたるはずの夏草が赤く枯れ、涼しいはずの露が熱く沸騰している様を松尾芭蕉が詠んだのです。

 

  やはり、硫黄の強いにおいと、夏草が枯れている様子、露も沸騰している様子を

  これだけを俳句に纏めるなんて芭蕉の観察眼するどい、

 

 

 

 「のをよこに うまひきむけよ ほととぎす」

 

こちらの句は、芭蕉が馬子に所望されて詠んだ句と言われています。

野原を進んでいくとホトトギスの鳴き声が聞こえる、そちらに馬を向けてください、という意味です。

 

ええっ、なんかそつけないじゃんか。

馬方さんの要望に応えただけでも偉いのかもしれませんが、

馬方さんに分かりやすい簡単な内容の俳句にしたのでしょうか?

 

ちなみに、曽良が詠んだ句は、

 

「かさねとは 八重撫子の 名成べし」

「かさね」というかわいい名の小姫との出会いを、花に例えたら八重撫子のようだと、

そんな気持ちを弟子の曾良が詠んだ句です。

 

あれ、なんか、曽良と芭蕉の自然観違くない?

曽良の気持ちも、ある意味で自然かな、、、。

 

 

 

  教伝地獄

  親不孝をいさめたものらしいです。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 那須といえば、那須与一(なすのよいち)が有名です。

 私だけかな?

 

 

那須余一(与一)は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れ、十一番、十あまり一で余一と命名されました。(後に与一に改名)

源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦ったのでした。

 

有名な屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わっています。

 

源氏と平家の「屋島の戦い」で、那須与一(なすのよいち)が敵船上に揺れる扇の的を射当てる際、

「南無八幡大菩薩、別にしては我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくば、あの扇の真ん中射させてたばせ給え」
と祈念したそうです。

 

 

「平家物語」にはこのように記載されています。

『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』と、

 

凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わし、その他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納しましたのです。三番目の鳥居も余一が奉納したものです。(よく見てこなかったのが残念、こんな有名人が奉納した鳥居があるだけでもすごすぎです。)

余一は不幸にして24歳の短命で世を去りましたが、那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至りました。

那須家は、現代まで続いていましたが、、、。話すと長くなるので、、。

 

 

 

 

 

 温泉神社は、「ゆぜんじんじゃ」と読むそうです。

 

 色々、見逃してしまったものも多く、那須与一の鳥居を見に行こうかな。

 

 最後まで、読んでいただき、ありがとうございます。