徳川家康の正妻・築山殿
 

​天正7年、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。

家康の上意により妻の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中区富塚)で徳川家の将来を危惧した岡本時仲と中野重政によって自害をせまられ、自害を拒んだ事から独断によって首を切られて殺害された。

検使役は石川義房が務めて首は安土城の信長の元に届けられた。

信康は、9月15日、二俣城で自害した。