大隈重信 ~自由民権運動の一方の雄であったが、、、。~

 

記者A

例の北海道開拓使の施設払い下げ事件で、政府がマスコミからたたかれたことでしょう。おえら方はこれを「大隈の画策」と見たらしいですよ。事実はわかりませんけど。大隈さんは追放されたけど、国会の開設が約束されたのだから、結局は、自由民権運動の勝利なんでしょうね。

 

記者B

先生こそ、自由民権運動のシンボルだ。我々は、自由党のような過激派ではない。

 

〇大隈重信のプロフィール

 もともと政府の実力者。その後政府から追放され、立憲改進党を結成。のち総理大臣に。

 

※1881年に大隈重信が政府から追放されたのは、どんなことを主張していたからか、それは、国会の早期開設です。

  政府は、大隈重信を追放し、10年後の国会開設を約束した。

 

〇大隈重信が生きたのはこんな時代

   明治維新

1874年    板垣退助ら、民撰議院設立の建白書を政府に提出

1881年    板垣ら、自由党をつくる。

          大隈重信、政府を去る

1882年    大隈ら、立憲改進党をつくる

1898年    大隈・板垣、初の政党内閣をつくる

 

〇政治を見続けてきた古老政治家の回想

もしかすると、立憲改進党の結成が彼の頂点だったかもしれんな。実は彼はその後も政治の中心にいたんだよ。総理大臣には2回もなっている。最初の時は、あの板垣退助と政党内閣をつくった。すぐに崩壊したけどな。次は第一次世界大戦がはじまったころ。中国に二十一カ条の要求をおしつけたのは大隈内閣じゃよ。