板垣退助  ~自由民権運動に火をつけた男~

 

相原尚褧(しょうけい)・・・・オレはあいつを襲撃した男さ。「板垣死すとも自由は死せず」と言ったかって?オレの耳には聞えなかったよ。でもな、その後のあいつの言動を見ると、襲うまでもなかったかな。板垣がいようがいまいが、自由はしなないさ。

 

板垣・・・・なぜ、政府から金をもらって外国旅行へ出かけたかって。いや、それは、あの、海外のこともしらなければ、議会政治は、、、。

 

 

板垣退助のプロフィール

征韓論をめぐる政争に敗れて政府を去り、民撰議院設立の建白書を提出。国会の開設が決まると自由党を結成し、党首になる。

 

※ 板垣退助らの民撰議院設立の建白書の提出をきっかけに始まった運動は、国民の政治参加です。

  自由民権運動は、議会の開設による国民の政治参加をめざしたのです。

 

 

〇板垣退助が生きた時代

 1873年  板垣退助、征韓論に敗れ政府を去る

 1874年  板垣ら、民撰議院設立の建白書を政府に提出

 1881年  板垣ら、自由党をつくる

 1882年  大隈重信ら、立憲改正進党をつくる

 1898年  大隈・板垣、初の政党内閣をつくる

 

板垣退助・・・・やっと議会が開かれた。これもみんなわたし、いや、自由民権運動の成果のたまものだ。さあ、議会で政府を追及するぞ。それに挑戦進出も求めるぞ。忘れたのか、私はもともと征韓論者だったんだ。

 

※ 自由党・・・・1881年、板垣退助を党首として結成された政党。フランス流の民権思想をめざす。

 

 

 

「吾死スルトモ自由ハ死セン」

この事件と板垣の発言については、当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されています。 当時の政府当局にとって、自由党の活動は好ましいものでなく、その周辺には絶えず警察官が監視を行っていました。岡本の報告書は、この時の板垣の遊説にあたっての動向をまとめたものです。

これによると、板垣が先に会場を退出し、ちょうど玄関にたどり着いた頃、玄関前が騒然となり、さらに何かが地上に倒れる音が聞こえてきました。岡本は何事かと思い現場に駆けつけたところ、板垣が起き上がり出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」との発言をしたと報告をしています。 岡本の報告書は、『公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年』という簿冊の中に綴じられています。この簿冊の中には、事件に関連する多くの資料が綴じられています。

岐阜県の警部長川俣正名が岐阜県令小崎利準宛に4月9日に提出した供覧文書に、3月28日から4月8日までの板垣の動向が記されています。その4月8日の記事に、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されています。 これらの言葉が人々に語り継がれる中で、次第に「板垣死すとも自由は死せず」という、我々がよく知っている表現となって定着していったのでしょう。

 

 

板垣を暗殺しようとした刺客は、愛知県士族小学校教員の相原尚褧(しょうけい)という人物でした。この簿冊の中には、事件の直後に岐阜警察で相原に対して行われた尋問の記録も含まれています。その記録の中で、相原が犯行に至るまでの経緯が詳細に述べられ、事件の際に短刀を携え板垣の胸部を目標とし、「将来ノ賊」と呼びかけ、兇行に及んだことが記されています。

また、この簿冊の中には、当時は医師であり、そして後に政治家となって台湾総督府民政局長・満鉄総裁・東京市長・外務大臣等を務めた後藤新平が板垣を診察した書類も見ることができます。

生き延びた板垣は、その後明治29年(1896年)に第二次伊藤博文内閣の内務大臣となり、明治31年(1898年)6月に、第一次大隈重信内閣の内務大臣となりましたが、同年10月、内紛によって内閣は瓦解し、以後政界を去ります。晩年は社会事業家としての道を歩み、大正8年(1919年)7月16日、82歳でその生涯を終えました。

 

 

 

 

 

 

訪ねて頂き、ありがとうございます。
歴史記事が、新しく生まれ変わりました。
「歴史ネタ帖」です。

https://yasbut.com/

 

宜しくお願いいたします。