あきつのとなめ 2
蜻蛉島とはどこか(『盗まれた神話』) 続き
(14,6,27記、一部改)
倭・百済連合軍が唐・新羅連合軍に壊滅的な敗北を喫した「白村江の戦い」
を画期として、倭国が衰退していく。そしてこの戦いにほとんど参加しなかっ
た近畿天皇家が、倭国の衰退に乗じて権力を簒奪したのが7世紀後半頃のこ
とであり、これは天智の頃のことである。
そして「日本国」が対外的にも(唐から)列島の王者として正式に認めら
れたのが、702年のことであり、ここが「倭国から日本国へ」(九州王朝
の衰退と近畿大和王朝の興隆)の転換点である。
** 近畿天皇家が「日本」を名乗り始めたのは、この7世紀半ばから8世
紀の初めである。しかし九州王朝の史書『日本旧記』は既に6世紀の中
頃には成立していたと思われるから、そもそも「日本」を名乗ったのは
九州王朝らしいのであるが、この点については省略。
しかしながら天智は10年(671年)に崩じた。そして壬申の乱が起きた
(672年)。天智の弟天武とその妻持統によって、天智の子大友の皇子
(弘文)は自害に追いやられた。
そしてこの天武・持統の後継王者たちによって、完成させられたのが
『古事記』『日本書紀』なのであるから、そこに大友の皇子側ではなく、
自分達こそが天智の意志を受け継いだ正統の王朝であることを書き記すこと
こそが、「記紀」の最大の目的となるのは当然である。
さらに直前の倭国から日本国への権力の獲得を特筆大書きしなかったのは
もちろん、いにしえ(神武どころかその祖先の神話時代)から、近畿天皇家が、
列島を支配してきたとする大義名分が、この日本書紀の根本のテーゼだから
である。
九州王朝などはなかったのであり、自分達こそが分流ではなく本家であり、
倭国とは自分達の昔の名前であると。そしてこの歴史の書き換えに以後の
歴史家たちつまり近畿天皇家一元主義者たちは完璧に操られてきたのである。
これが天武の言う「削偽定実」の意味である。
* 「記紀」の成立
さて近畿天皇家が己を古からの列島の支配者であると、歴史を書き換える、
偽を削り、実を定めるとは、これまで列島の支配者であった九州王朝に代々
伝わる歴史書を換骨奪胎するということであったに違いないのである。
既に5世紀の倭の五王(*)の時代から、とりわけ著名な倭王武の堂々たる
上表文(478年**)からしても、漢文を使った歴史書がなかったと想定
する方がおかしいわけである。
そしてもう一つ、「壬申の乱」で大津の近江朝廷に有った記録類、歴史書
等が焼失、散亡してしまったことが改めて歴史書をつくる理由であったと思
われる。
* 『三国志』につづく中国の史書『宋書』(梁の沈約しんやく著)に出て
くる「讃、珍、済、興、武」と中国風一字名を名乗る倭国王たち。
古代史学者たちは酷く勝手な解釈で、近畿天皇家の天皇に当ててきたが、
それがどれだけデタラメなものかを古田は暴いている。
『失われた九州王朝』 第二章 「倭の五王」の探求
** 「封国は偏遠にして、藩を外に作なす。昔より祖禰そでい躬みずから甲冑を
擐つらぬき、山川を跋渉ばっしょうし、寧処ねいしょに遑いとまあらず」
* 『古事記』と『日本書紀』
よく記紀の性格の違いが取りざたされるが、一言で言えば『古事記』は
(712年成立、天地開闢より推古朝まで)近畿天皇家に伝わった伝承を核
としたものであり、そしてそれと外国の史書(唐や百済に伝わる)や九州王
朝の歴史書(古田によると『日本旧記』、これは『書紀』の中に名前がちら
りとでてくる。)をつぎはぎし、剽窃して作られたものが『日本書紀』であ
る(720年成立、天地開闢より持統朝まで)。
( 百済系三史料の例ではっきりしているように、直接引用以外に大量の
資料を三史料から切り取って『書紀』の本文としているのだそうだ。
記事量の多い欽明記では、約70%弱がそれであるというから剽窃も
甚だしい。しかもその内実は「九州王朝-百済」間の史実なのである。
(古田))
書紀にはあって、古事記には出てこない説話の場合はこの剽窃を疑って
見る必要があるのだ。しかし正史とされたのはあくまで『日本書紀』であり、
『古事記』は長い間封印され、あやうく歴史の闇に葬り去られそうになった
事実があるし、「偽書」説も根強かった。
* 『日本旧記』
ところでこの神武のものとされる「あきつのとなめ」の説話は、『古事記』
には出現しないのである。ということはどこからか取ってきて接木されたも
のである可能性がある。それは『日本旧記』からであり、この説話は九州王
朝のもの以外にはあり得ない。
九州王朝の始祖が九州一円を平定する遠征譚の中にあったと推定されるもの
を、神武の説話として剽窃し、場所も大和に持って来たものである。
だから奈良盆地を指して、「まさき国」とするのも地図を俯瞰している
わけでもない古代人の感覚としては明らかにおかしいものとなっているし、
「内木綿」も永遠に解けない謎である。
さらに神武が登って見下ろしたとされる「わきがみのほほまの丘」もどこ
だか分からないままなのである。
* とよのあきつしま
書紀、古事記の国産み神話は「大八洲国」を何に当てるかにいろいろな
違いがある。通説では洲はシマと読まれている。
ところが越洲、や対馬洲といった使い方からしても、越の国は島ではないし
ツシマのシマというのはおかしいのである。「洲国を産む」としてクニと読
んでいることからしても、この「洲」は「洲国」の省略形で「クニ」と読む
べきと思われる。
そうすると「越洲」は越のクニで、「大洲」はオオシマではなく、大国主
のいたオオクニ(今の島根県、出雲王朝の地)であり、「筑紫洲」も九州島
全体を指すのではなく、博多湾岸のツクシノクニ(チクシノクニ)であり、
この三ヶ所が「記紀神話」の主要な舞台である。そしてこの3つは一段地名で、
わりと広い地域を指している。
「大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)」は本州全体を意味するとさ
れる場合はもちろんのこと、大和の国を指したりする場合もこの記紀神話の
舞台からは外れているので、おかしいのである。
とりわけ大和の国はこの頃は明らかに銅鐸文化圏であり、記紀神話の銅剣、
銅矛文化圏ではない。
「大日本」は明らかに後代の美称であり、新しい意味を付与されて成立し
た名称なのである。これを除くと、豊のアキツ(洲)クニとなる。
2段地名で、他には伊予のフタナ(洲)クニ、吉備のコ(洲)クニ、
隠岐のミツゴ(洲)クニなどとなる。こちらはずっと狭い。
この豊は豊かな地という形容詞ではなく、豊クニつまり豊後・豊前、今の
大分県である。本来の話は九州王朝の始祖が、博多湾岸から豊の国に進撃し、
この地を平定したときの遠征譚なのであるから。
そして「アキツ」はこの豊国の「津」(湾岸を指す)に面した「アキ」と
いう地名を意味している。そして実際に別府湾に面した国東半島に、今でも
「安岐川」の河口に「安岐」町がある。そしてこれは『和名抄』にも出てい
る古名である(安岐郷)。
支配し占拠したまさに最初は拠点だったのだ。
その後支配地アキツは別府湾周辺全体に広がっていっただろう。
(『古事記』の「雄略(天皇)記」に雄略の腕に食いついたアブをトンボ
が食ってしまったという説話から、「其の野を号して阿岐豆野あきづのといふ
なり」「倭やまとの国を蜻蛉島あきつしまといふ」という地名説話が別にあり、
近畿天皇家の本来の伝承はこちらだったと思われる。
同一地名に二人の命名始原者がいるはずはないから、このことからも神武
記の命名説話は他(『日本旧記』)から挿入されたものだといえる。)
* あきつのとなめ
この豊国のアキツ、別府湾の奥に由布院(ゆふいん)がある。
「由布岳」「由布川」があり、この一帯が由布という地名であることは、
同じく『和名抄』にも出ているし、『万葉集』では「豊国之木綿山」と表記
も同じである。
「まさき国」の枕詞か?として意味不明だった「内木綿」は地名であった。
そして奈良盆地の「掖上」の「本間」という地名に似せて「わきがみの
ほほま」と読ませていた漢字も「ふくま」と読むべき字であり、由布院盆地
の西側に「福万山」がそびえ、近くには「ワキ」という地名もある。
そして何より「あきつのとなめ」つまりトンボの交尾である。神武ならぬ
九州王朝の始祖が、この辺り一体を血みどろの戦闘で勝利し獲得して、
「あなにや国を獲つること」と勝利の感慨に浸り、見渡した土地の様子である。
それは「まさき国」せまい土地で、トンボの交尾のようだというのである
から、ハート型の狭い盆地が相応しい。奈良盆地は一目で見渡せるほど狭い土
地ではないし、ハート型とは関係ないのである。しかし由布院盆地は福万山
から由布岳に向かってその狭い土地を一望に出来、ハート型に近い形をして
いるのだ。
*
こうして私たちは古田武彦の苦闘に導かれて本来の「あきつのとなめ」の
地に辿り着いた。もちろんこれは私のかなり簡潔な要約でしかない。
一番の核心は列島の支配者は昔から近畿天皇家だとする『記紀』の呪縛
から解き放たれることである。
その先在の九州王朝やさらには出雲王朝、その他天皇家以前の各地の古代
の王たちの存在と闘争をごく当たり前のこととして据え置けばなぞは解ける
のだということ、王と言えば近畿天皇家とする一元主義では解けないのだと
いうことである。
ここに至る膨大な論証は、古田の三部作を、この話の場合は『盗まれた神話』
を読んでもらうしかない。それもその前の『「邪馬台国」はなかった』
『失われた九州王朝』が前提であるが。もちろんこれらに続く沢山の著作
がある。最近復刻版が出ているはずだ。
余りにも長い行程がその前提としてあり、結論だけ聞いたのでは「突飛な説」
としか思えないだろうからである。だがじっくり古田の話を聞けば、その論証
の手堅さや推論の行方に納得できるはずである。
私はいつも古田の本を読むと、下手な推理小説を読むより、ずっと面白い
と思うのである。だが、基本は古代の漢文の読み下しであるから、難しい漢
字のオンパレードに困難を極める。学者でもない私たちはこれは素直に着い
て行き自分の頭で考えるしかない。
もちろん古田の論証が総て正しいと盲信するつもりは全くない。古田も
そんな事は望んでもいない。論証が十分ではないとおもわれるところ、判断
できかねること分からないことも多い。しかし古田の論証のその底に流れる
真摯な学問的探求の態度には疑問の余地はないと思うのである。
そして古田によって開かれた古代の真実の扉を潜れば、目の前にまったく
新しい世界が広がるのを覚えるだろうと思う。
** 関係する私のブログ
19,1,22(11,6,21) 歴史の見方
19,1,25(11,6,25) 歴史の見方 その2
19,2,5 (11,7,3) 歴史の見方 その3
19,5,29(12,1,17) 「日本」
付記 14,7,10
図書館で『山と渓谷』7月号を見てびっくりした。その表紙を飾っている
のはまさにこの「あきつのとなめ」の地、由布岳の下に「まさき地」その
ままに眺められる由布院盆地の写真ではないか。「神武」ならぬ九州王朝の
始祖が眺めた「福間山」からとは位置関係が東からと西からと逆ではあるが。
撮ったのは大分県生まれの山岳写真家で、ヒマラヤの写真集などを出して
いる佐藤孝三さんという方だ。それにしても私がこんな文章を書いていると
きにその答の地、湯布院盆地の写真がまるで無関係なところ(だが山屋の本)
から出るなどというのは何となく感慨深いものがある。
(了)