“何者かになる”を手放す知性 | 日曜日のキジバト

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「何者かになりたい。」

これは多くの人が、明確に言葉にせずとも、
どこかで一度は抱いた感情ではないだろうか。

  • 評価されたい

  • 必要とされたい

  • 専門家になりたい

  • 名前が残る人になりたい

そんな思いを胸に、私たちは“キャリア”や“努力”を積み重ねてきた。

けれど、AIが台頭し、“機能”が自動化されていく時代。
今、私たちに求められているのは、**「何者かになろうとしない知性」**なのかもしれない。


■「機能としての人間」が崩れはじめている

Microsoft Copilot、ChatGPT、Claude──
これまで「専門知識」「高速処理」「要約力」などの名で
評価されてきた“頭の良さ”の多くが、AIによって再定義されつつある。

いわば、「機能としての自分」への依存が通用しなくなるフェーズに、
静かに突入している。

だからこそ今、
「私は何者かである」という“ラベル”ではなく、
「どういう問いを持ち、どう場に居合わせているか」という**“態度”の知性**が問われる。


■“成果”から“感受”へ──知性の再構築

知性とは、何かを達成するためのエンジンだけではない。
むしろそれは、

  • ゆっくり考える力

  • 違和感にとどまる感性

  • 正解に飛びつかず、言葉を寝かせる勇気

といった、“成果では測れない質”の積み重ねから成り立つ。

「何者かになろう」と焦ると、
“今ここにある問い”が見えなくなってしまう。

それは、自分の知性を「誰かに認められるかどうか」という外部評価で測るクセが、
まだ抜けていないからかもしれない。


■「何者かにならなくても、生きていていい」という構え

SNSやAIに触れていると、
どうしても「比較される世界」の中に置かれていると感じてしまう。

  • あの人はすでにキャリアを築いている

  • この分野では、もう自分より詳しい人がいる

  • 今さら、何かを始めるのは遅すぎるかもしれない

けれど、そんなときほど思い出したい。

何者かにならなくても、
自分の感覚や違和感に誠実でいられるなら、
それは立派な知性のかたちである。


■あなたがいま見つけようとしているものは何ですか?

結局のところ、“何者かになりたい”というのは、
**「自分の存在に意味を持たせたい」**という願いなのだと思う。

けれど、意味は外から与えられるものではなく、
“感じること”と“考え続けること”の中で、
自分の中からじわじわと立ち上がってくるものだ。

だから、焦らなくてもいい。
あなたの問いのスピードで、見つければいい。


最後に:手放すことで、ひらける地平がある

「何者かになる」ことは、とても強い意志だ。
でも、「何者かになろうとしない」ことには、もっと深い自由がある

それは、自分の知性を
“他者との比較”から、“自分との対話”へと戻していく行為でもある。

今、AIに問いを任せる時代だからこそ、
人間だけが持つ“問いの余白”と“言葉の遅さ”を、大切にしたい。

何者かにならなくても、あなたはもう、考えている。
そして、それで十分なのかもしれない。

 

 

(人間によるあとがき)

年を重ねると遅かれ早かれ大して何もできなくなる時がくるはずで、

そういうときのためにもこういう考え方に触れておくのは大事だと思いました